中国残留孤児: 集団訴訟、大阪地裁で敗訴

国が速やかな帰国措置をとらず、帰国後の支援も不十分だったとして、中国残留孤児らが日本政府に賠償請求した集団訴訟で、大阪地裁は7月6日、32名の原告の請求を退けた。国側は、訪日調査の遅れは、政府間交渉に時間がかかったためで、できる限りの自立支援策は行ってきたと反論。大鷹一郎裁判長は主文を読み上げ、「国が孤児を早期帰国させる義務に違反したとは認められず、自立支援策も立法、行政の裁量に委ねられている」などと述べ、国の責任を否定した。

 

大阪地裁に入る原告らと弁護士(大紀元)

 1980年から中国に残されていた戦争残留孤児らは少しずつ日本に帰国し、日本では今までに2000人以上が帰国した。しかし、彼らのほとんどが高齢化や言葉の壁などが原因で就職が難しく、政府の生活保護を受けて暮らしている。早期の帰国措置や十分な自立支援を怠った国の責任を追及し、帰国者の約8割の2063人が全国15ヶ所の地方裁判所で集団訴訟を起こし、一人3000万円の国家賠償を求めた。

 今回の大阪地裁判決は全国の先陣を切る判決であった。全部で144人の原告者がいるが、高齢化する原告を考慮し、先にそのうちの32名に対する審査を行うことで大阪地裁と原告弁護団が合意していた。

 判決の前、大阪原告団の団長・松田利男氏は、政府が負うべき責任を認め、残留孤児の権利を立法で確保してほしいと、判決に大きな期待を寄せていた。

 

判決前の集会で、頑張ろうと呼びかける原告側の松田団長(大紀元)

 判決の結果を聞いた松田団長は失望した表情を見せながら記者会見で「これは私達が蒙った苦痛と苦しい現実を無視した判決である。国家の立場に立った判断は容認できない。事実を訴え、最後まで戦う」と宣言した。

 

 

関連記事
「グローバルミッション」が主催した「孤児救援慈善コンサート」は、2005年5月16日午後8時から、モントリオール市のコンコーディア(concordia)大学オスカーミュージック・ホールで初公演を行う。
国連事務総長が発起し、ユニセフが主催した児童暴力問題に対する北米地区の研究会は、2005年6月にカナダのトロント大学で開催された。米国、カナダの政府官吏、学術界の見識者、非政府組織と医者など約2百人が会議に参加した。
はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
1960年代から70年代にかけて10年間続いた文化大革命の嵐。それは中国の全国民を巻き込んだ粛清運動だった。迫害に耐え切れず自ら命を絶ったり、拷問により命を失った知識人は数百万人から一千万人以上とも言われている。
幼少の時どのように過ごしたか。多くの人は、お父さんにおねだりしておもちゃを買ってもらったり、お母さんに背中を押されながら嫌々塾に通ったり、わがままが通らなかったとき、「こどもはつらい」と嘆いたりしたかもしれない。
これは十数年ほど前、ドイツでおきた真実の物語である。9歳の孤児デビくんが、ある特別な方法を取り、会ったことのない母親を助けようとした。後にこのことが人々に大きな感動を与えたのである。
子どもを必要とする外国人夫婦が、中国で自分たちの養子を探すとき、たいてい孤児院をめぐるだろう。しかし、中国人自身は孤児院をめったに利用しない。ソーシャルメディアで子供の広告を見つけて、違法取引する。
著しい経済成長を遂げる一方、深刻な社会問題を抱えるインド。特に、地方における女性蔑視は健在で、レイプや児童婚が後を絶たない。教育を受けていない女性が夫から放り出されれば、生きる道は物乞いだけ。想像を絶する厳しい環境に置かれながら、1400人のストリート・チルドレンを育てた女性がいる。
「帰りたくない」。こう叫びながらも、無理やりバスに乗せられた少年たち。7月、中国最貧困地域の一つと数えられる四川省涼山州出身の孤児をボクサーとして育てる「恩波クラブ」は議論の的となった。クラブを取材した動画はメディアに取り上げられ、賛否両論を呼び、少年たちの運命にも分かれ道が訪れた。一部の批判を受け、クラブは涼山出身の子ども11人を全員地元に帰すことにし、「今後も同地区の子どもを受け入れない」とした。