【都を語る】北京城の九門

【大紀元日本9月25日】元朝が北京を都に定めてから、北京の修復改造が開始された。ゆえに北京古城の城壁は元の時代に由来し、明の時代に形成されたものとされる。当時、元の時代には城壁に11の城門があったが、明朝初期、劉伯温が北京を修築する際に、元の11の城門のうちの9の城門―正陽門、崇文門、宣武門、安定門、徳勝門、東直門、西直門、朝陽門、阜成門―を「北京城九門」と定めた。つまり人々がよく口にする「内九城(内側に位置する九つの城門)」である。

北京城の九門は、当初から対称的な構造で修造された。すなわち、東直門は西直門と向き合い、朝陽門は阜成門と向き合い、宣武門は徳勝門と向き合っているが、ただ正陽門だけが対となる城門がなかった。正陽門は南側の中心部にあり、ちょうど北京城の中軸線上に位置する。ゆえに九門の中の正門である。その上正陽門は皇宮と向き合い、「聖者が陽となり、日が中天に至り、万国これを仰ぎ見る」の意を採って、「正陽」と名づけたのである。その北側に城門が設置されていないのは、“王の気”が漏れないための配慮であると言われている。その当時、北京城の九門のいずれにもやぐらが設置され、高くそびえ、壮大にしてゆったりとしていた。清朝の九門提督は、九門の内外を巡回し防衛の責任を負っていた。

北京城の九門の中でも、正陽門、崇文門、宣武門は南の城壁に位置し、総括して“前三門”と称され、安定門と徳勝門は北の城壁に位置し、東直門と朝陽門は東の城壁に、西直門と阜成門は西の城壁に位置していた。すべての城門には独特な用途があり、異なる類型の車両が通っていたので、「九門には九車が出でる」と呼ばれていた。

正陽門は前門と俗称され、明朝世祖朱棣が都を北京と定めた後、城壁や城門も含めた北京城の大修築を行った。正統4年になってから、城門のやぐらが竣工され、正陽門は北京城九門の正門、つまり北京の正門となったのである。それ以後清朝まで、正陽門は常に最高水準の城門とされ、ただ皇帝だけがこの門の出入りを許されていた。皇帝は毎年、正陽門を2回通るようになっていた。1回は冬に天壇で天を祭るため、もう1回は啓蟄の時に農壇で耕すためである。明と清の時代には、天安門広場の南に位置する大明門から正陽門との間には、正に碁盤の形をした四角い地区、即ち「碁盤街」があった。碁盤街は、明朝と清朝の最も繁栄した場所で、住宅が立ち並び、商人が往来していた。当時の朝廷は、一部の政府の重要部門をもこの場に設置していた。

崇文門は元朝では文明門とも呼ばれ、古い北京人はこれを「ハ徳門」あるいは「海岱門」と呼んでいた。崇文門の左側には寺があり、中には海を鎮めるための鉄の亀が置かれている。伝説によれば、この城の周囲にめぐらされた堀の下には海の眼があるため、鉄の亀は海の眼を鎮め、北京城の平安を守っていたとされる。崇文門はまた税を納める場所でもあった。往来する商人はみなこの場で納税していた。当時、酒造りの工場は全部南に位置していたため、崇文門はまた酒樽を積んだ貨車が通ることでよく知られ、城外には酒を輸送するための専用通路が準備されていた。

宣武門はもともと順承門と呼ばれ、囚人を護送する車が通る城門であった。清朝では、犯罪人を処決する刑場は宣武門の外側の菜市口に位置していた。犯罪人は刑部の査定を受けてから、宣武門の下を通って、菜市口で首切りの刑に処されていた。そのため宣武門の真上には「後悔遅し」という3文字が刻まれていた。

東側の朝陽門は食料輸送車が通過する城門であり、元朝では斎化門と呼ばれていた。古から、食料を積んだ輸送車は通常水路を通って、通州についてから再び馬車に荷を積んで上京していた。都の穀倉に穀類を入れる時期になると、朝陽門を通る食料輸送車が絶えず往来していた。城門の真上には麦の穂が刻まれていた。

東直門を通る車両は煩雑で、主にレンガと木材を輸送する車両であった。なぜなら当時、レンガを焼くかまどは東直門の外側に設置されていたからだ。当時の東直門大通りは石板が敷かれた街であった。左右に百軒ほどの店舗が並び、およそ人々が日常使う品物は全部ここで購入できた。

西直門は元々和義門と称され、俗称水門で、水車が通る城門であった。当時皇宮での飲用水はすべて西郊外の玉泉山から運ばれ、皇宮専用の水車が毎日、玉泉山で汲んだ水を皇宮に送っていた。城門の上には漢白玉の水紋型の石彫りが刻まれていた。北京人はこれを「西直水紋」と呼んだ。

同じく西側に位置する阜城門と朝陽門は東西はるばる向き合っていた。北京の西側の門頭溝は石炭を作る場所だったので、石炭を積んだ車両はすべて阜城門を通っていた。阜城門の上には、梅の花が刻まれ、石炭の音を取って「煤」と記されていた。

北側の徳勝門は軍隊の出入りする城門であり、戦勝して凱旋する意味が込められている。徳勝門には「徳勝祈雪」の石碑がある。清朝の乾隆帝が立てたと伝えられ、当時、冬に干ばつに襲われ、乾隆帝が城を出て雪を祈ったところ、徳勝門を通るとき、大雪が天から降ってきた。乾隆帝は大いに喜び、記念するためこの石碑を建てたという。

安定門は元々安貞門と呼ばれ、糞車が通る城門であった。内側には真武寺が建てられている。

北京城の九門の上に置かれている扁額の上の「門」という漢字には、すべて「はね」の部分がない。皇帝はすなわち龍身天子であり、龍は水中の生き物であるため、とがったかぎ状のものを恐れたと伝えられている。北京城は皇帝の住む場所であるので、極力忌み嫌われていた。そのため九門の「門」という漢字の最後の一画はまっすぐおろしたようになり、「はね」の部分はないのである。

(林妍整理編集)