日本マスコミの中国情報について
【大紀元日本8月4日】先日のテレビに、当時文化大革命に参加していたカメラマンの話を中心とする番組があった。文革の実態や当時の走資派とされた人達のその後の話を興味深く視聴した。案の定、製作は日本のマスコミ主体ではなかったようだ。日本の大手マスコミにとって、中国は未だに一種の聖域なのか、遺跡や風物等は別としても政治に絡んだテーマについては情報をかなり意識的に選別報道しているように見えるのは筆者だけではなかろう。
元々、中国当局には以前から都合の悪い情報については海外に漏れるのを極端に嫌う性向があることは公知の事実である。その内容はともかくも中国の面子を損なうと中国当局が考える問題は大なり小なり網をかぶせて頬かむりする悪癖がある。中国人は歴史的にも面子を重んじる民族であり、国家であれ個人であれ機微に触れる情報の公開については消極的になること自体は理解出来るが、それも程度の問題であろう。一方、本邦においては報道の自由を履き違えて有名人の醜聞に類することは勿論、事故や犯罪行為の被害者にまで執拗にマイクを突きつけるマスコミの姿は、何をしても許されると信じるマスコミ独特の思い上がりとしか思えないし、欧米においてもパパラッチといわれる人達が傍若無人の振る舞いに及び識者が眉を顰める事も少なくない。元を質せば、読者や視聴者の野次馬根性や人間の卑しい好奇心に迄行き着く問題でもあるが、その一方で、国家レベルで情報が統制されてしまうと全く別のしかも深刻な問題が発生することになる。つまり社会に於ける世論の形成自体が政府の厳重な統制下にあると言うわけだ。もとより、どの国に於いても国家機密が存在するのは当然ではあるが、それは飽く迄国益に限定されるべきものである。一例を挙げればサーズとか鳥インフルエンザのような人類全体に危機を及ぼすような事件の情報が無責任に報道されれば、無用の混乱を招くのみか、流言蜚語を招き経済活動全体にまで悪影響を及ぼす事は必至であり、その意味で情報がある程度管理されるのは当然としても、本来開示すべき、つまり警報の形で注意を喚起すべき情報に至るまで隠匿したり、小出しにするのは如何なものか。本邦の各地それも首都圏のみならず地方都市にまで不法滞在中国人による凶悪犯罪が多発している冷厳な事実を中国の民衆は、全く知らされてもいないであろうが同様に中国内部における組織犯罪や抗議活動の類も碌に報道もされてもいないと云うのが真相であろう。これは単に体制の違いと称して済まされる性質の問題ではなかろう。何でもかんでも報道しろというのではない。節度があって然るべきではあるが、マスコミが国家の統制の道具と化すれば害の方が多くなるのも道理である。
さて、40年も前の話であるが、中国で文化大革命の嵐が吹き荒れていた頃、日本の所謂進歩的文化人が押しなべて文革を好意的に評価していた風潮が想起される。差別用語は慎むべきではあるが、文字通り「群盲象を撫でる」と云う諺が相応しい限られたお仕着せの情報、つまり中国政府に招待された人達が見聞した農場、施設、参加した催事のみの体験から文化大革命や人民公社を賛美したのはそう昔の事ではない。大手新聞にもその種の記事がよく掲載されたものである。尤も渡航した人のなかにも、けっこういい加減な人もいたようで、ある施設を見てあまりに感嘆するので同行者が「この程度の施設は日本にもいくらもあるではないか」と詰ったところ「私の住んでいる町内にはない」と答えて恥じぬ御仁がいたそうな。要するに文化大革命や人民公社の実態を冷静に評価出来ていたか否かであろう。マスコミは社会の公器である。世論においては正しくオピニオンリーダーである。その故にこそ首相であろうと大手企業であろうと容赦のない批判に曝される事を甘受せねばならないのが民主主義の社会である。この面に関する限り日本のマスコミは戦前とは明らかに一線を画する存在となったが、残念ながら、中国に関する情報を除いてと言わざるを得まい。