【中国のことわざ】朝秦暮楚

【大紀元日本9月30日】【朝秦暮楚 Zhāo qín mù chǔ】朝は北方の秦国に居り、夕は南方の楚国に泊る。→しっかりした考えがなく、ふらふらした態度をとる。また、居所が定まらないという意味。

秦国はもとは西周成王が伯益に与えた封土で、今の甘粛省天水にあったが、秦庄公の時、大丘(今の陝西省)に遷り、首都を咸陽に定めた。楚国はもとは西周成王が熊繹に与えた封土で、今の湖北省にあり、首都を丹陽に定めた。戦国時代に秦、楚ともに七雄(斉、楚、燕、韓、趙、魏、秦)の一つになった。当時、秦楚間の争いがもっとも頻繁で、各国の諸侯が自国の利を優先させるために、時に秦を助けたり、時に楚を助けたりしたので、各国の政客も自身の利害を大事にし、常に自分の政治主張を変えた。

今日、朝秦暮楚は列強が勢力圏を奪い合う条件の下で、取捨選択が多く変わることを形容する。また、双方の間でぐらつくことを指したり、両地間を頻繁に跋渉して苦労することを形容したり、時には仲裁者が言い争う双方の間に立って調停することをも指したりする。

他人の考えを受け入れるという寛容さは大事だが、自己の利益ばかり考えて、都合の良い方につくというのは、人としての品格を疑われるであろう。

出典:北宋・晁補之《晁無咎詞・北渚亭賦》

(編集・縁修)