月も曇る絶世の美女 貂蝉

【大紀元日本11月18日】貂蝉(ちょうせん)は、西施、王昭君、楊貴妃と並んで中国四大美人に数えられるが、唯一正史に記載されておらず、彼女に関する伝説は、すべて羅貫中の『三国演義』が源となっている。

『三国演義』によれば、貂蝉は、主に政治や外交を司る司徒・王允(おういん)の養女で、絶世の美女であった。時は漢朝末期、董卓が政治を乱したことから、王允は昼夜朝政を案じていた。それを知った貂蝉は、月の下で香を焚いて父の心配事が解けるようひたすら祈っていた。貂蝉が董卓と呂布との間に愛憎を引き起こす物語は、これを発端に生まれたのである。

董卓は隴西臨洮の出身で、傲慢で怒りっぽい性格であった。正史『三国志』の中では、彼は「侠客」として描かれており、地方の武官と付き合うのを好んだ。その後手柄を立てたことから弁州の長官に封ぜられ、次第に勢力を強めて一地方を自分の縄張りとしたとされる。

漢朝末期、宦官の横暴から朝廷が乱れたため、大将軍何進は董卓に頼んで宮中の宦官を取り除こうとしたが、何進自身が宦官に殺されてしまった。そこで、董卓は独断で少帝を廃し、献帝を立て、諸侯を脅して自分の言うことを聞かせた。

一方、呂布は、元東漢の武将で、勇猛で戦いに長けていたが、地位や財産に走りやすく、董卓が権力を奪うと、董卓の養子となった。

王允は、董卓、呂布とも目先の利益を追い求め、好色であると知ると、二人を仲たがいさせるために、巧妙な計略を使った。つまり、貂蝉を密かに呂布のいいなずけにしておきながら、公には貂蝉を董卓に捧げることによって、董卓と呂布の間で嫉妬と争いを引き起こそうとしたのである。

呂布は、董卓が留守のうちに貂蝉と密会した。その際、貂蝉が呂布に、自分が董卓のものになってしまったつらさをわざと泣きながら訴えたことから、呂布の董卓に対する不満は一層深くなった。ちょうどその時、董卓が帰ってきて、養子である呂布が自分の最愛の妾と密会しているのを目にした。激しく怒った董卓は、呂布が愛用していた「方天画戟(ほうてんがげき)」を奪って呂布を殺そうとしたが、呂布はその場から逃げのびた。その後、二人は互いに疑い合うようになった。しばらくして、貂蝉は甘言で呂布を説得して、漢朝の権力を奪わせ、政治を乱した董卓を殺させた。

実は、『三国演義』の中では、貂蝉に対する描写はここで終わっており、貂蝉が結局どうなったのかは、人々の想像に委ねられた。そのため、貂蝉はただ文学作品の中で作り上げられたフィクションに過ぎないと考える人もいるが、今日の学者の考証によれば、貂蝉は実在していたとされる。彼女は漢代の弁州郡九原県に生まれ、姓を「任」といった。十五歳で選ばれて後宮に入り、漢代の官吏たちの官帽と飾り物を管理していた。当時、官帽と飾り物を「貂蝉」と呼んでいたことから、人々は彼女のことを「貂蝉」と呼ぶようになったというのである。

貂蝉の美しさについて、次のような話が伝えられている。父の心配事が解けるよう、貂蝉が花園で明月を拝んで祈っていると、一陣の風が吹いてきて、皓々と輝く明月が雲に隠れてしまった。そこから、「こんな綺麗な月も、傾国の美女貂蝉には及ばないと思って自ら身を隠した」と言い伝えられるようになった。それ以来、人々は、彼女の美しさを「閉月(月も曇る)」という言葉で喩えるようになったと言われる。