【中国のことわざ】既往不咎

【大紀元日本8月5日】【既往不咎 Jì wǎng bù jiù 】既往は咎(とが)めず。過去のことはいたずらにとがめだてしない。→過去のことは今更とやかく言っても仕方がない、これからは失敗を繰り返さないように慎むことが大切であるということ。

魯の哀公は孔子の弟子である宰我に、社稷(しゃしょく)の火事の修復に当たって、どんな神木を植えればよいか、と問うた。古くから各時代ごとに、その都の土に適した木が神木として植えられたからである。

宰我は、「夏の時代には松を植え、殷の時代には柏を植え、周の時代になってから栗を植えるようになりました」と答え、更に、「周の時代に栗を植えたのは、罪を犯す者は厳しく罰するぞと、人民を戦慄せしめ【慄と栗は同音】、統治しようとしたためだと思います」と付け加えた。これは、哀公が国を良くするために、平子が昭公を強制的に逃亡させた罪を討伐しようとしているという哀公の政治的意図を暗に指していたのである。

後にこれを聞いた孔子は、「すでにうまくいっている事柄は再度手を加える必要はなく、すでに実現した事柄はやめるように諌める必要もない。過去の過ぎ去った事柄を咎める必要はない」と言った。

今日の日本と中国の関係は経済的には良好だが、政治的には冷めている、といわれる。中国側は日本の戦時中の虐殺などを理由に日本に謝罪を求めている。外国に敵をつくれば、内政の問題は隠すことができる。しかし、それでは根本的な解決にはなっていない。過去のことを咎めたり責めたりする前に、現在の中国の問題に対処すべきである。貧しい農民の身分の保障や、政府高官の汚職など解決すべき問題は山積みである。それは共産党一党独裁という点に問題があるように思う。やはり、権力の集中は政治腐敗が進んでしまう。政権の批判的立場をとることのできる政党の出現を望む。そうでないと、いつまでも民主主義が確立しない。過去を顧みることも重要ではあるが、それよりも、現在の中国の問題点を解決し、さらには、将来の中国のあるべき姿を希求すべきである。

出典:論語《八侑》

(編集・縁修)