大道無名
【大紀元日本1月24日】悠久の歴史を有する中国は、各分野で幾多数多の英傑を輩出してきた。その中でも、私が特に印象に残るのは「老子」なる人物である。現在では、西安で道門の始祖として崇拝の対象となっているようだが、現役の頃、といっても2500年以上も前の中国中原のことであるから、文献でしか知るよりしかないのだが、台湾で出ている本によると、かの「孔子」と直接対決したことが二度あるという。真偽の程はもとより知る由も無いが、そこで老子は孔子を見るなり「欲が深い」と看破して、それ以上語ることもなかったという。愛妾を数人もつ儒家が片腹痛かったのであろう。彼は世の有様を見て自分の留まる所ではないと見切り、五千字の「道徳経」を残して早々と消えてしまった。
さて、本題にある「大道無名」とは何だろうか。老子は道の本質は「無形」と「無名」であると看破した。無形は本題ではないので置いておくとして、「無名」とは果たして、一部の文化人のように「名利名聞」に拘らず、執着しないことなのであろうか。私は、「目立たないところに注目しろ」ということだと思う。そこに真実が垣間見える。
中国では、経済発展が順調な一方で、反体制民主派等の正義の声は圧殺され裁判もなく投獄されている。社会主義体制の矛盾と腐敗を取材したジャーナリストや体制批判をした学者は無慈悲に投獄され拷問されている。彼らの行く先は、「強制労働収容所」「刑務所」等の類である。中国では、「正義の誓い」が強ければ強いほど、このような場所で拷問される。しかし、彼らこそ、われ等日本人が心から対話できる真の中国の友人である気がするのである。彼らは、もし中国が民主化されていれば、陽の当たる場所で脚光を浴びていたはずの「少し早く生まれた中国人」であり次世代中国を担うべき逸材、日本とアジアと真に対話できる「進歩的な中国人」であるように思う。