著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(22)「全財産が……」

しかし、新たな嵐が密かに私たち家族に忍び寄り、私たちのすべてを奪い、家族の運命を決めたのです。

 ある静かな朝、目覚めた私は、母が目に涙を浮かべ、呆然と座っているのに気がつきました。「どうしたの」と聞いたら、母は大きな声を出さないようにと合図してから、小さな声で「財布を盗まれたの」と言いました。

 私はとても驚きました。それがどれほど深刻なことかは想像もつきませんでしたが、そのお金の大切さだけは知っていました。私たち家族はそれがないと生きていけないし、日本へも帰れません。それに、日本の祖母との生活費もそれが頼りだったのですが、今全てがなくなってしまいました。これからどうすればいいのだろう。私は悲しくて涙が出てきました。母は強い人で、これまでどんなことに遭っても、冷静に方法を考え、決してめそめそなどしませんでした。そんな母が今途方に暮れて涙を流しているのです。母のそんな様子を見るのは、初めてでした。

 そのお金は、父が家を離れる前に、子供を連れていたらいろいろとお金が要るだろうからと、私たちのために残してくれたもので、そのおかげで、お腹が空いた時には、食べ物が買えました。当時私は、買い物をするにはお金が要るということぐらいしかわからず、お金の価値や意味はよくわかっていなかったので、初めは、我が家のなくなったお金が家族の命にも等しいということなど、想像もできませんでした。

 私が母に、「財布の中にはたくさんあったの?」と聞くと、母は「そうよ。日本に帰ってもしばらくは生活できるくらい」と教えてくれました。続けて、「全部なくなったの?」と尋ねると、「ポケットの小銭以外は全部財布に入れておいたの。それを盗まれるなんて」と話してくれました。

 私は部屋の中を見渡しました。私の家のすぐ向かいにいる何軒かは全部後から入ってきた他の開拓団の人たちで、名前も知りませんでした。どの家も子供がたくさんいて、生活に困っていました。母はしょっちゅうその人たちを助けてあげましたが、まさかその人たちが財布を盗んだんだろうか。どうして盗んだりしたんだろう。向こうのお母さんは私の視線を感じたようで、下を向いたまま外へ出て行きました。私は追いかけて、お金を盗んだんじゃないかと聞こうとしましたが、母は私を止めて、「こんなときだから、向こうもどうにもしかたなくて盗んだんだと思うわ。誰もみな困っているんだから、もうあきらめましょう」と言いました。

 それ以来、私たち家族は卵やシャオピン(ナンに近い食べ物)といった物を一度も口にすることはありませんでした。ところが、向かいの家族は、それ以来、子供が多いのに毎日マーホア(小麦粉の揚げ菓子)が食べられるようになったのです。

 私はいまだに母の慈悲に満ちた心を不思議に思っています。母の善良と温厚さは生まれつきで、それが私に大きな影響を与えており、私も内心の怒りをじっと我慢しました。

(つづく)

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