著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(24)「中国人家庭へ…」

生まれたばかりの弟の死

 すでに十月に入り、次第に冷え込んできました。団長はすでに段取りを済ませ、開拓団全員をひきつれて沙蘭鎮の王家村に帰り、そこで冬越えをしようとしていました。これは、私たちにとって三回目の逃避でした。今回の移動は主には寒さと餓えをしのぐためのもので、相変わらず死の危険が私たちに付きまとっていました。

 ただ、馬蓮河屯を離れる時になって、もう移動したくないという人たちもいました。いっそここで凍え死に飢え死にしたほうがましで、二度と逃避行の旅には出たくないというのです。

 人は生きる望みがなくなると、本当に頑張りがきかなくなるもので、特に生死の試練の前ではそうです。もし、母が一回一回教え導いてくれなかったら、私は本当にその後の人生で一人で頑張っていけたかどうか分りません。

 馬蓮河屯を離れる時には、来た時に比べて団員はずいぶん減っており、年配のおじいさんやおばあさんは見かけなくなりました。伝染病で亡くなったのかもしれないし、もう東奔西走したくないのか、動こうにも動けなくなったのかもしれません。

 私たちは王家村に帰る時、東京の町は通らず、回り道をして山道を行きました。歩いているうちに暗くなったので、ジャガイモ畑で一夜を過ごしました。翌朝は寒さと飢えで目が覚めました。起き上がってみると、全身きらきらした露のしずくだらけで、太陽の光に反射して五色の彩りを放っていました。身に着けていた服も湿っていましたが、幸い晴れており、太陽が出てくると、暖かく感じられました。それに、母がジャガイモを煮て食べさせてくれたので、そんなに寒くはありませんでした。

 私たちは出発して歩き出すと、次第に暖かく感じました。今回の帰り道は、来る時のように緊張して早足という風ではありませんでした。皆は、もう力がない様子でした。

 私の母はお腹が大きく、もうすぐにでも生まれそうで、歩くのも大変でした。私たちはまるまる一日中歩いて、夕方前に王家村に着きました。開拓団の住宅は現地の中国人に全部壊されたということで、何も残っていませんでした。冬を越す綿入れの服などあるはずもなく、母が出発前にカーテンを引いて玄関を施錠した、あの光景もすでになくなっていました。私はずいぶん悲しくなり、まるでずっと悪夢を見ているように感じました。

 団長は、私たちのためにある中国人の家庭と連絡を取り、仕事をするかわりにそこに泊めてもらうことになりました。私たち一家5人は、ある中国人家庭の空き部屋に連れて行かれました。その部屋には人は住んでいませんでしたが、オンドルとかまどがあり、かまどの上には鉄鍋がありました。蓋はありませんでしたが。窓にはガラスがなく、大小不揃いの板が打ち付けてありました。

 オンドルには筵(むしろ)はなく、土オンドルでした。母は、どこからか麦わらをもってきて、オンドルの上に敷き、私たちはその上で寝ることができるようになりました。母はまた外からトウモロコシの茎をたくさん抱えて来て、私たちに茎をかじって汁をすするように言いました。その汁はとても甘いものでした。

 弟は茎に付いていた黒いものも口にいれ、口中真っ黒になりました。母は以前、地面に落ちたビスケットを食べようとした弟を叱ったことがありましたが、今はもうそんなことは言いません。みんなお腹が空いていて、空腹を満たす以外、何も考えていませんでした。夜になると冷え込んできたので、母は私たちの体に麦わらをたくさんかけてくれました。

 翌日目が覚めると、ある人が私たちを畑に連れて行き、トウモロコシもぎをするように言いました。あたりには家はなく、山も樹もありません。風がとても強く、寒く感じました。母は私たちが寒いだろうと思い、弟と一緒にトウモロコシの茎を集めて囲いを作るように言いました。疲れたころには寒くなくなり、囲いの真ん中に座ってトウモロコシの茎を持ってきてはトウモロコシをもぎ取りました。全部もぎ終わると、茎を抱えて前へ移動するという具合で、お昼になってやっと、村に帰ってご飯を食べました。

 この中国人の家はとても大きく、東棟と西棟ともに南北のオンドルがあり、私たちの部屋は西棟の北オンドルのほうでした。その棟の北オンドルと南オンドルの間は薄い板で仕切られているだけで、南側の部屋の人の声が聞こえました。人の姿は見えませんでしたが。北側の部屋はあまり広くありませんでしたが、オンドルは温かく、私と弟たちは上に上がってとても気持ちよく感じました。

 私は母にも上がって来て足を温めるように言いましたが、母は私に弟たちの面倒をちゃんと見ておくようにと言うと、外の部屋に行って火を起こしたりお椀を洗ったりの手伝いに行きました。母はお腹がずいぶん大きくて大変だったので、助けてあげようと思いましたが、何をしたらいいかわからず、しかたなく弟たちと一緒にオンドルの上に坐って、ご飯ができるのを待ちました。

 私たちは朝から何も口にしていなかったのでお腹がペコペコでした。外は風が強く、全身底冷えがしていたのですが、今は温かいオンドルの上に座っているので、お腹は空いていましたが、外よりは格段に気持ちがいいものでした。

 私は静かにオンドルの上で待っていると、脳裏には何の恐怖もなく、何の心配もありませんでした。私たちは流れ者と変わりありませんでしたが、母がそばにいたので、それだけが希望の綱でした。子供の頃の私には、いつの日か母が私から離れていくことなど想像もつかなかったし、たとえ母がそばにいても餓死することもありうるなどということも思いもしませんでした。

間もなく、母が私たちに熱々のトウモロコシ粥を運んできてくれました

 

間もなく、母が私たちに熱々のトウモロコシ粥を運んできてくれました。一人に一枚ずつトウモロコシ粉で作った薄焼きパンと、さらには味噌と漬物もありました。中国の味噌も漬物もずいぶん塩辛かったのですが、熱々のトウモロコシ粥と漬物にありつけて、私たちはとても満足でした。母は何度もその家の主人に感謝していました。

 この家の中国人は張と言いました。子供が3人いるのですが、みんなもう大人でした。孫娘が一人いて、私と大して違わない年でした。私たちが北側の部屋で食事をしていると、いつも彼女が私たちを見にやって来ました。私はきまりが悪く感じましたが、女の子の友好的な顔を見て、すぐに安心して食べ始めました。お互いに話が通じないので、彼女はただ来て私たちを見ているだけだし、私もただうなずいて笑っているだけでした。

 私たちは数日間続けて、畑でトウモロコシもぎをしました。もぎ終わると、さらに茎を一箇所に集めて束ねなければなりませんでした。幸い、秋が過ぎてからは雨の日が少なく、畑の仕事が順調に終わると、私たちは屋内に入り、北側の部屋のオンドルの上でトウモロコシの粒をもぎ取ることになりました。部屋の中は暖かく、外に比べてずいぶん快適だったので、弟たちも熱心に働きました。

 私たちは1日で麻袋に幾袋分もトウモロコシの粒をもぎ取りました。時には野菜蔵の白菜の掃除もしたし、干して乾かしたトウガラシを紐で数珠つなぎにしたりもしました。トウガラシを触った手はどう洗ってもその辛味が落ちないもので、その手でうっかり顔を洗うと、顔がヒリヒリしました。ただその次からは同じ間違いはしなくなりましたが。また時には、トウモロコシの粉をひいたりもしました。

 総じて、秋からの農村は、農作業が多く、一日として休みがありませんでした。この家の中国人は、母の仕事ぶりに満足で、母は賢く少し教えればすぐ覚えると言っていました。母は大変に苦労しましたが、子供たちのために、朝早くから夜遅くまで一生懸命この家の仕事を手伝い、私たちにご飯を食べさせてくれた温情に報いようと必死でした。

(つづく)

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