著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(25)「生まれたばかりの弟の死」

11月に入ってから、急に冷え込み始めました。日中の時間も次第に短くなってきました。ソ連軍がしょっちゅう家に押し入ってきて、女性を連れて行くという噂を耳にしました。ある人などは、ソ連軍に連れて行かれないように顔を黒く塗り、男か女か分らなくしました。

 ある日、母は夜遅くに仕事が終わって家にもどり、休もうとしました。そのとき、誰かが玄関の戸を押し開けようとする音がしたかと思うと、まだ私たちがいったいどうしたことかわからないうちに、2人の若いソ連兵みたいな人が肩に銃をかついで押し入ってきました。私たちは驚いて母にすがりつきました。ソ連兵は母の腕を掴むと、オンドルから引きずりおろそうとしました。私はこの様子を見ると、弟たちに母にしっかりしがみついておくように言い、大声で人を呼びました。

 私が叫ぶと、兵士の一人は玄関の外をキョロキョロと見ました。私が叫び続けているまさにそのとき、母はおなかが突然痛んで叫び出しました。母の腕を掴んでいた兵士は、母が今にも子供が生まれそうな妊婦だということが分って、その腕を放しました。そして、別の兵士と何やら話をして去っていきました。

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生まれたばかりの弟の死 すでに十月に入り、次第に冷え込んできました。団長はすでに段取りを済ませ、開拓団全員をひきつれて沙蘭鎮の王家村に帰り、そこで冬越えをしようとしていました。これは、私たちにとって三回目の逃避でした。今回の移動は主には寒さと餓えをしのぐためのもので、相変わらず死の危険が私たちに付きまとっていました。
第四章 独り暴風雨の洗礼に直面する 母、弟たちとの永遠の別れ 私が孤児になる運命がすぐそこまで近づいていようとは思いもよりませんでした。運命の手が今すぐにも、慈愛に満ちた、いつも私の命を守ってくれた母と、これまで互いに助け合ってきた二人の可愛い聞き分けのいい弟を、私のそばから永遠に連れ去ろうとしていました。
実は、よその家の子供たちはすでに、次々に中国人の家に引き取られていっていました。
養母の苛めに遭う 私と弟はこのようにして中国人に連れていかれました。私たちはかなり長時間歩いて、夕方前にやっと沙蘭鎮に到着しました。
私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。
ある日、王潔茹がそっと私に教えてくれました。西院に靴の修繕職人がいて、その家に日本女性がいるというのです。そこで、私は母と二人の弟の消息を何か聞き出せるのではないかと思って、その家に行きました。
私と弟が沙蘭鎮に来てからはや数カ月が過ぎ、私たちは中国語が話せるようになりました。ある日、我が家に二人の軍服を着た若い男の人が、何やら入った二つの麻袋を持ってやってきました。中には、凍った雉やら野ジカやら食糧などが入っていました。
私は、もしかしたら養父は私を気に入ってくれないかもしれないと、心中、さらに不安になりました。
どうであれ、養母が不在であった数日は、私はとても楽しくとても自由で、私と弟の趙全有は中庭で、街で見たヤンガ隊の真似をして、自分たちでも踊ってみました。