≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(67)

しばし謝家に身を寄せ、中学に合格

 大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできるところが見つかり、流浪の日々で疲れた心身は、やっと少し休ませることができました。それ以降、私は放課後は、畑の仕事と家事に忙しい日々を過ごしました。そんな時、謝おばあさんが私を義理の娘にしました。そこで、その口の不自由な息子が私の兄になり、謝おばあさんの娘を、私はお姉さんと呼ぶようになりました。

 しばらくの間、私は鐘玉恵さんの家にも手伝いに行きました。钟玉惠さんの家は店を開いており、ちょうど私に手伝ってもらいたかったのです。当時、店には年少の店員が働いていたのですが、忙しくて手が回らない状態でした。

 沙蘭で店を開いていると、朝早くから開け、夜遅くまで営業することになります。朝と晩に、醤油、酢、お酒などを買いに来る人が多かったからです。村人たちは、だいたい朝早くに野菜や卵を売りに来て、帰りがけに生活用品を買って帰りました。日中は、この人たちは畑仕事をしているので、朝晩店に買い物に来ました。

 私は進んで鐘家の店を手伝いました。朝早くに起きて店の前を掃除して、戸板をはずして店を開け、カウンターの埃を拭き取り、ガラスを磨きました。時間が余れば、家事を手伝いました。放課後は、カウンターで日用品の販売をしました。客のいない時は、読書もできました。『水滸伝』は、その当時読んだのです。まだ小学生程度で、読めない漢字がたくさんありましたが。

 この時に、私は算盤を習い、桁の大きい掛け算と割り算もすることができるようになりました。お客さんは、私が計算が早いと褒めてくれました。

 この家の娘の鐘秀英は私より二歳年上でしたが、勉強はあまり熱心ではありませんでした。条件が恵まれすぎていたからかもしれませんが、勉強したがらず、宿題はいつも私に手伝わせていました。何度も落第し、最終的には中学に合格しませんでした。

 私は彼女とは違い、中学には必ず合格しなくてはならない事情がありました。この困難から脱して独立し、生存の危機から逃れるためには、どうしても中学に上がるしかなかったのです。このため、私は中学受験をしようと決心しました。しかし、鐘玉恵さんの奥さんの謝雨芬おばさんは、私が中学を受験することに猛反対しました。謝おばあさんもそうです。女には学問は要らないというのです。当然、私があとあと品物を売ったり雑用をしたりなど、いろいろと店の手伝いをしてくれるのを期待していたからです。

 二人の前では、私は何も説明せず、反駁もしませんでした。しかし、内心の決意は揺るぎないものでした。私はこっそり中学受験の手続きをすることに決めました。それからの私は、放課後に店を手伝う以外、密かに努力し、黙々と進学の準備をしていました。その後、本当に全科目満点の優秀な成績で、寧安県第一中学に合格することができたのです。

 (続く)