≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(85)

私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。この年、中等専門学校は、牡丹江師範専門学校が2クラス学生を募集した以外は、一律に募集せず、高校も2クラスのみが募集しただけでした。

 この年、寧安一中は、高校クラスを2クラス募集しましたが、寧安一中だけでなく、寧安二中、さらには海林県、穆陵県、八面通などの中学からも受験に参加することになり、合格の割合はとても小さくなっていました。そのため、私たちはかなり緊張して、みんな努力して精を出して授業に向かい、何とかして高校に合格しようと準備していました。

 夏休み前の試験の頃になると、私たちのような卒業を控えたクラスの学生は、朝一緒に集合して登校する必要もなく、自分で先に学校に行くことができました。当時、学友たちはみんな、早くに起きて、学校にやってくると朝の自習をしました。高校に進学するために、みんなは勉強を主要な任務としていました。

 当時は、学校も優秀な生徒を激励していました。ところが、後に、事情が変わり、勉強がよくできる学生は批判を受ける対象になり、知識は何の価値もなくなりました。教養のある知識人は、言うまでもなく地位の低いものとされ、勉強がよくできることは一種の罪悪のようになり、中国共産党によって「只專不紅(勉強に熱心なだけで、革命に理解がない)」として蔑視されるようになるのです。

 私たち中学の三年三組には50名余の学生がいて、高校に合格したのはたった四名だけでした。男子学生は趙常武と孟沢繁で、女子学生は私と関莉民でした。私だけが寄宿生で、他の3人はすべて寧安鎮から通学している生徒でした。クラスにはもう一人賈樹という男子学生がいて、牡丹江師範専門学校に合格しました。

 しかし、その翌年、つまり1958年には、高校は6クラスを募集したので、1年目に合格することができなかった人も、2年目にはほとんど合格しました。私の親友であった宮崇霊も2年目に合格しました。私たちは同じ学年ではないので、高校に上がってからは、彼女と接触する機会は次第に少なくなりましたが、彼女は、私が寧安に来て以来ずっと第一の知己でした。

 私たち、学校防衛隊の「三琴」の内、関桂琴も合格しましたが、劉桂琴は合格しませんでした。彼女は後に、ハルビン衛生学校に推薦入学しました。この学校は60年に中医学院に改編されました。劉桂琴はその第一期の卒業生で、卒業後、牡丹江市立病院に配置されて、産婦人科医をしていました。

 李福忠は黒龍江大学の中国語学部に合格しました。私たち数人は、彼が大学に合格したのを本当に喜び祝福しました。彼は私たちを、「君たちも三年したら大学生だよ」と励ましてくれました。

 高校受験が終わると、私は沙蘭まで趙おばさんの様子を見こうと考えていました。ところが、沙蘭に帰らないうちに、私は寧安の街中で李興忠おじさんの所の李おばさんにばったりと出会い、「趙全有のお母さんが亡くなったよ」と告げられました。李おばさんはさらに、趙おばさんは中風で言葉が不自由になったけど、胸の内では何でも分かっているようだったと言いました。隣近所の人たちがしょっちゅう彼女の世話をしに行ったそうです。

 ある日、李おばさんがうどんを一杯作って趙おばさんの所に持って行きました。彼女はそれを全部たいらげました。どうも良くなったようで、座ることもできました。ただ話ができないだけでした。

 隣近所の人たちも何度かやってきて、趙おばさんが快方に向かっているのを喜んでいたのですが、そのとき、おばさんは手を伸ばして掛け布団と枕を手元に引き寄せようとしました。皆はどういうことなのかはっきりとは分からなかったのですが、おばさんのために枕を取って背中に置き、それにもたれて座らせてあげました。

 ところが、それでも手を伸ばして何か取ろうとしていたので、掛け布団を彼女の膝の上に掛けてやりました。すると、おばさんは、その掛け布団をつかんで引き裂こうとしたのです。皆はまた例によって発作が出たのだと気にも留めませんでした。どうせ、おばさんは手足がすでに不自由で、引き裂くことはできなかったのですから。しかし、おばあさんはどうしても掛け布団を引き裂きたい様子でした。

 李おばさんは比較的聡明で、趙おばさんは発作を起こしたのではなく、口がきけず、半身が動かないだけで、意識ははっきりとしているということを見抜いていたようでした。そこで、李おばさんは、趙おばさんのために布団を引き裂いてやりました。

 すると驚いたことに、布団の綿の中に多くのお金を挟んでいたのでした。これでやっと、趙おばさんがどうして枕を指さしていたのかがわかり、急いで枕を彼女の背中から外し、引き裂いてみると、仰天したことに、中は蕎麦殻が少し入っているだけで、残りはすべてお金でした。農村では、こんなに多くのお金を見たことのある人は滅多におらず、皆はどうすればいいか、分かりませんでした。

 その中の1人が、すぐに村の幹部に報告するのがいいと言いました。そこで、村の幹部がやって来て、お金を全部持っていってしまいました。そして、趙おばさんに、「村の政府が替わりに預かるから、いつでも必要なときには、取りにいらっしゃい」と言いました。

 しかし、それから間もなくして、趙おばさんは他界し、結局、あのお金がどうなったのか、知る人はいません。その話を聞いて私は、当然のように、もしほんの一部でも全有の治療に使っていたなら、全有は死ぬこともなかったし、おばあさんも幸せな老後が送れたのになと思いました。

 しかし、おばさんは、臨終の際にまともな服一つありませんでした。おばさんは、全有に対してお金を使うのを惜しんだと同じように、お金を自分の命よりも大切に考えたので、そんなにも貯め込んでも結局、幸せを享受することができませんでした。

 人の運命について、私は不思議なものを感じ始めました。人はなぜこのように、願い通りにはいかないのでしょうか。

 (続く)