英国バイリンガル子育て奮闘記(58)クマのアシスタント(1997年頃)

【大紀元日本10月25日】文部省の通信学習というのを1年生の時からやっていたが、2年生で算数の九九算の壁があり、いろいろな意味で限界を感じた。まだ習っていない漢字が提出用のシートの問題に含まれていた時は、出題者は漢字のない環境で日本語の子育てしたことがないんだな、と落胆した。

それでも、だましだまし、大きなぬいぐるみのクマちゃんに鉛筆をもたせ、「わー、クマちゃん上手」などと言って、思わず娘も隣で鉛筆を持って字を書いてしまうように引き込んだりしながら、なんとか3年生まで持ち込んだ。ちなみに、このクマちゃん、日本製。2年生の訪日の際、日本で親戚が持て余していたところをいただいてきた。あまりにも大きかったので、帰りのフライトで一座席はとれないでしょ、と娘を諭して、一ヶ月遅れで船と鉄道の旅をして我が家に来てもらった。三年生くらいまでの漢字が書ける、実に賢いクマである。

通信学習の教材といっしょに「地球新聞」というのが毎月送られてきた。 後ろのページに親を対象にした、少し専門的な記事があった。その中で印象的だったのが、7歳から14歳の間、どこで生活したかで、人格形成に大きな影響が及ぼされる、という内容のものだった。この時期に日本の生活を体験させれば、どこかに日本が残るんだ、とこの7歳から14歳という数字を常に頭に置いていた。

たまたま、この話をオーストラリアから来たという人に話したら、感慨深く「三人兄弟のひとりとして、 オーストラリアからイギリスに移住したけれど、家族の中で私だけうまくイギリスに入れなかったの」と告白してくれた。上の兄は15歳(オーストラリア人として確立していた)、下の弟は6歳(何人にでもなれる時期だった)で、彼女は12歳だったそうだ。とにかくオーストラリアが恋しくてイギリス生活に馴染むのにひどく時間がかかったとのこと。そして、初めてその説明がついたと納得していた。

実際、9歳で娘を日本に連れて行った時は、前回とは様子が全く違い、異文化(日本)拒否症が現れた。

この話は、次回にまわすとして、とにかく、私としては、この時期に日本に触れさせなければ、というあせりから、通信学習が拒否された時点で、日本語の衛星放送を見せることにした。私がキムタクにはまってしまったことは別として、一つの収穫は、大晦日のNHK放送だった。ゴーンと百八つの音が鳴る日本の風景を、わざと9時間ずらしてイギリス時間の大晦日に放映してくれる。イギリスでは12月24日の真夜中のミサのために教会の鐘が鳴り響くが、地球の裏側で「ごーん」とくると胸に迫るものを感じる。娘に、一年間を振り返って、百八つの、自分がした悪いことを考えるんだよ、と言い聞かせたら、「うーん、 ベッドメーキング(布団の上げ下げはないので、シーツと掛け布団をきちんとする程度のこと)しなかったでしょ」と自分の落ち度を挙げ始めた。毎日、部屋がぐちゃぐちゃなら、これだけで、365回、鐘を鳴らしてもらわなければ・・・。

(続く)

著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。