英国バイリンガル子育て奮闘記(63)新しい学校 (1998年 春)

【大紀元日本11月29日】別の学校を探すにあたって、娘のバイリンガル、バイカルチャーを受け入れ育んでくれることを基準に据えていた。前の学校では、特に何語で娘に話しても誰も気にかけないという気楽さがあり、ここなら大丈夫と確信して入学させた。しかし、校長が代わり雰囲気が変わってしまった。

地元の小さな小さな私立に行ってみた。数年前の不況の際、生き延びれずに潰れかかったところを地元の有力者が救済。学校名をその有力者の名前に変更して再出発をはかったという所で、幼稚園から高校まで全校生徒を合わせても200人に満たないこじんまりとした学校だった。

校長先生と親だけの面談で、日本語で育てているため異文化の狭間の苦労があるということを語ったら、実は奥さんがアイルランド人でカトリック教徒。英国国教会で育った自分とは宗派が違うため、結婚式を二度挙げたとか。個人的に異文化間に身を置く苦労を垣間見せてくれた。その真摯な姿勢に「この人なら何かあった時に話ができる」と確信し、入学を決めた。

また、学校の特色を出して生き残りをはかるため、小学校からフランス語だけの授業を導入。そのために特別にバイリンガルの教員を雇用したとか。この田舎で始めてバイリンガルの話ができる人に出会えた、ということも入学決定の要因だった。

因みに、当時は公立の中学も、美術系とか運動系とかの特色を出し、生徒を採る方式を採用し始めていた。

さて、公立から私立に転校するにあたって、イヤミの一つでも言われるかと思ったが 、ありがたいことに私の思い過ごしだった。転校することにした、と一人のお母さんに打ち明けたら、私の親戚がキッチンで働いているという返答があった。 この田舎では潰れかかった私立校の存在は、地元にとって貴重な雇用先のようで、皆が支え合っているようだった。

純粋に本人のことを第一に考え,転校を祝福してくれる人たちに出会い、逆に自分の心の狭さを恥じた。

(続く)

著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。