【ショート・エッセイ】 空を見よう 星を仰ごう

【大紀元日本12月26日】大宇宙のなかに、地球という砂粒のように小さい星が浮かんでおり、その粒の表面の小さな島に私たちは乗っている。

7年の歳月をかけて60億キロの長旅を終え、大気圏突入で燃え尽きた宇宙探査機「はやぶさ」が持ち帰ったカプセルには、小惑星イトカワの岩石物質が入っていた。宇宙が物質的な実在体であることの証明に、また一歩近づいたことになるらしい。

しかし一方、このような可視的な部分だけに頼る人間の認識が、果たしてどれほどの程度なのか、実のところ分からないのである。いや、分かるとすれば、人間の認識の及ぶ範囲などたかが知れているということかも知れない。

そのヒントは、先人が残してくれた知的財産のなかに数多くある。

西遊記』は、とにかく面白い。觔斗雲に乗り、天界を所狭しと暴れまわる孫悟空が突き当たった天の柱は、なんと釈迦如来の手指であった。釈迦如来は反省の色もない孫悟空を、懲罰のため五行山に封じ込めてしまう。五百年後、ようやく功徳を積むことが許されて封印を解かれた孫悟空は、三蔵法師の弟子となって天竺へ経典を求める旅に出るのである。

その次元に対する認識がまだまだ低い場合、得てして人は不遜になり、思い上がる。しかし、やがて自ら受けるその報いを避けることはできない。身を焼き尽くして任務を完遂した「はやぶさ」の快挙に拍手を惜しむものではないが、やはり觔斗雲の孫悟空にならないために、私たちは謙虚な姿勢と心構えを忘れたくないと思う。

間もなく新しい年が明ける。宇宙には何の変化もないが、私たちの気持ちを新たにするきっかけには十分になるだろう。

パソコン相手に下ばかり向いているのは、健康上よろしくはあるまい。空を見よう。星を仰ごう。都会の空に星がなくなって久しいが、宇宙から星が消えたのではない。

(埼玉S)