<宮城、茨城沖地震>家路まで数十キロ 都内被災者 帰宅困難

【大紀元日本3月12日】23時を回り、交通システムの麻痺で都心に勤める人々が徒歩で家路を急ぐ。都内の街はパニック状態に陥ってはいないが、家路までの長い道のりと、続く余震に人々は気疲れしているようだ。

中央区を抜ける昭和通りは、徒歩で帰宅を試みる人々が日が落ちるにつれて増えてきた。ヒールの高い靴を脱いで歩く女性や、キヨスクで買ったお菓子を頬張り、空腹感を満たすサラリーマンが見られる。

高田馬場から神田まで、親族に会うために歩いてきた男性プログラマー(33)は、「人間が交通網や通信網を失うと、こんなに弱いということを思い知らされた」という。また、地震発生時、新宿の50階建ての高層ビルの38階で、商談をしていたという男性会社員(45)は、「一度はもう覚悟を決めた。地面から突き上げてくるような天災なら、もう仕方がない」と疲れた顔で話す。

全線運転を見合わせたJRの秋葉原駅で待ち合わせをしていた神田にある飲食店店員(23)の女性は、「ニュージーランドの大震災を思い起こした。数回の大きな地震のときは外に飛び出した」という。

卒業式のために美しい袴やドレスを纏った専門学校生たちが、暗いコートを着たサラリーマンの列の中で目立った。秋葉原駅付近を列を成して早々と歩いていた。服飾専門学校の卒業生たちが六本木で謝恩会を開催中に地震が発生、参加者300人が避難をはじめた。「寒いし、外に出られる服を持っていない。なんとか歩いて帰りたい」と話す卒業生たちは、すでに秋葉原まで3時間歩いたのだが、さらに学校のある鶯谷へ避難しようと数時間歩くのだという。

緊急の災害時には、人の様が現れると言われる。秋葉原駅前にあるキヨスク「コクミン」の店長(29)は、大型電気店や量販店がシャッターを閉めている中、電気を煌々とつけて店頭の商品を整えていた。「駅でまっている人はお腹が空いてしまい、のどが渇くだろうから閉めてはいけない」と、通常の閉店時間22時を過ぎても店を開け続けている。取材中も、駅周辺の人々に道を聞かれていたが、冷静に答えていた。

大手印刷会社の社員2人が、昭和通り沿いの歩道を、米袋10キロを6つ、計60キロを重たそうに抱えて歩いていた。聞くところによると、職場に残っている約600人の社員のためにこれから夜食を作るのだという。「危機・災害のときは、集団でいたほうがいいね」と、話した。

20時30分頃、気象庁は、マグニチュード(M)8.8を記録した宮城茨城沖地震は同庁が観測を始めた1923年以降、最大級だという。同庁の横山地震津波監視課長は「今後も、M7クラスの津波警戒が必要になる余震が起こる可能性がある。1カ月は余震への警戒が必要」と会見で述べた。

(佐渡 道世)
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