ゴルバチョフ元大統領、「早く共産党から離党すべきだった」

【大紀元日本8月20日】旧ソ連共産党体制崩壊20周年の節目に、 英紙ガーディアンは、ゴルバチョフ元大統領を独占取材した。「もっとも悔いのあることは何か」との質問に、元大統領は、「もっと早い段階で共産党から離党すべきだった」と答え、一連の経緯を語った。

「事実上、共産党を改革する道のりでは、私は行き過ぎた」と元大統領は認め、1991年4月の時点で書記長を辞任し、民主の政党を立ち上げるべきだったと話した。「共産党はすべての必要な変革にブレーキを踏むからだ」という。

一方、2大勢力はともにゴルバチョフ氏をけん制しようとした。党内の保守派と反対派は彼の政策を変えようとし、改革支持派は多党制の政治体制の構築と、市場の改革を訴えていた。

そして4月、中央委員会の会議の席で、数人の委員は国の緊急事態宣言の発動を要請し、内部粛清制度の復活を求めた。氏の回想録(1996年発売)の記述によると、当時、ゴルバチョフ氏は、「煽りはもうたくさんだ、辞任する」と激しく反発した。

この一件について、ゴルバチョフ氏は今回の取材で次のように説明した。怒り心頭のゴルバチョフ氏の言葉を聞いた最高指導部である政治局のメンバーはすぐに会場に入り、ゴルバチョフ氏を外に連れ出して、会議を続行させた。3時間外で待たされたゴルバチョフ氏は、政治局から辞意撤回を求められた。実はそのころ、ゴルバチョフ氏は中央委員会の支持者からもある名簿を渡され、新党の設立を支持する100人以上の名前が書かれていた。

会議に戻ったゴルバチョフ氏は結局、辞職しないことを表明した。このことに関する会議採決も行われなかった。回想録によると、「辞職は自分の意向ではあったが、党を見捨てる権利は自分にない」と考えていたという。

しかし今回の取材では、ゴルバチョフ氏はこのような感情を完全に捨てたという。「今の私は思うには、あの機会で新しい政党を設立すべきだった。しかも、共産党書記長の職を辞任すべきだった。彼ら(共産党)は改革を妨げている。改革を打ち出したのは確かに共産党だったが、彼らの改革はただ表飾りの見せかけに過ぎなかった。本質はいつまでも元のままだ」

同紙取材の最後、記者は元大統領に対して、中国の政局への見方を尋ねた。歴史の長いスパンでみると、中国の変革は絶対に避けられない、とゴルバチョフ氏は答えた。

また記者が、旧ソ連も中共政権のように、まずは政治改革ではなく、経済改革を実施すべきだったのではないかとの問いに、「そうなると旧ソ連にいかなる変革も起こらなかったはず。国民は完全に政策決定に関わることができなくなる」と答えた。

同氏は1985年から1991年まで、旧ソ連の共産党書記長を務めた。任期中には共産党体制の崩壊を推し進め、米ソ両国の冷戦を終焉させた。1990年にはノーベル平和賞を受賞した。

(翻訳編集・叶子)
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