英国バイリンガル子育て奮闘記(103)進路決定 (下)(2008年)

【大紀元日本9月5日】一年間の美術の基礎コースが始まった。交通の便が悪いので、一応、寄宿に入った。しかし、最初の数週間はちょくちょく家に戻ってきた。3週間目に寄宿に戻る時、「私の家に帰る」という表現を娘が使い、「あ、気持ち的に独立したんだな」という実感があった。

寄宿と言っても、4人でキッチンを共有し、週に一回掃除の人が来る。2年目から気の合った友人とアパートを借りて共同生活を送るための前段階であり、親元から初めて離れる学生を十分に配慮した環境だった。キッチンには人数分の個別の収用棚があり、自分の食べ物とフラットメートの食べ物には一線が引かれるように設定されていた。外から掃除する人が来ることで、一応、どんなにだらしなくても監視が入り、最低ぎりぎりの生活状況が保たれる。

授業の方は、一学期は全ての素材を体験する。グループに分かれ、テキスタイル、陶芸、木工、アニメ、写真など、実に様々な媒体を試して、二学期には自分の専門を選ぶ。そして三学期は大学申請のための活動。大学の要請する入学の課題をこなすことで終っていた。9月からコースが始まり、秋になって、いろいろな写真を撮りたいから、冬休みに国外旅行をすると言い出した。台湾、香港、日本を回るという。私は特に反対するでもなく賛成するでもなく「あ、そう」と返事をしておいた。そして具体的に旅行代理店でフライトの価格を尋ね、とんでもない、そんなお金は自分にはない、ということに気づいてくれた。そして「日本だけにする」と言い出した。

「おばあちゃんの様子見てきてくれる?それならフライト代、出すよ」と私が提案し、娘の日本への一人旅が決まった。どうせ行くならなるべくいろいろ体験してもらおう、と学生時代の友人のお子さんなどに声をかけた。しかし、娘は日本語が話せても、メールで日本人とやり取りできるほどの書き言葉の能力には欠ける。結局私が、友人や友人の娘さんとメールのやりとりをして、京都旅行、名古屋の田んぼの散策、六本木ヒルズと実に多様な観光を盛り込んだ日程がほぼ確定した。

学校からの課題をこなすため、常にスケッチブックを片手に旅していたと親戚が報告してくれた。そして、1月の初めに帰国し、この学期では家具のデザインなどをする予定だったが、家の中の物より、外のデザインがしたい、と言い出した。自信はないが建築の勉強をしたいという。時差ボケやカルチャーショックと戦いながらやっと建築学科のコースを娘がネットで調べ始めた頃、大学申請の締め切り日の1月10日が空しく経過してしまった。1月11日の朝、娘から電話をもらい「締め切りすぎちゃった。あと一年、親と一緒に暮らすなんてできないよ」と言い渡された。「これでコーンウォールから出る心の準備が整った」と私は内心、娘の成長を喜んだ。

危惧していた1月10日の締め切りというのは形ばかりで、結局、既に内定のあった中国語とビジネスの併合コースをキャンセルすれば、新たな申請が可能ということが分かった。4校に申請して3校から返事をもらい、2校の面接の日取りが決まった。自分でロンドンの宿を予約し、A1サイズのスケッチの入った巨大なポートフォリオを持って、ロンドンの地下鉄を乗り換え乗り換え、面接会場に向かった。

親戚を見渡しても建築士はいないし、美術の基礎コースの先生の知識も限られていた。面接中に、最近の建築学科の動向などの説明も受け、進路のアドバイスをしてもらったと言っていた。結局、美術の基礎コースを1年履修することを入学条件とする美術ベースの建築のコースに受け入れてもらった。本人も一番気に入ったコースだったようだ。

高校での進路決定の際、オックスフォードやケンブリッジという名前でなく、本人が本当にしたいことを見極めて、それに見合ったコースを探すようにすることが肝要、というアドバイスを担任から受けたが、学歴社会の日本からやってきた私にはピンとこなかった。しかし、こうして、娘の思いもよらない進路変更を体験し、先生の言葉の意味がやっと納得できた。本人の心から出てくるものを根気よく育む、懐の大きな教育環境に脱帽した。

(続く)

著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。