中国伝統文化への誘い(四) 魏晋南北朝

【大紀元日本12月13日】魏晋南北朝時代(紀元439–589年)は、戦乱に満ちた時代でした。中国は分裂し、様々な将軍がそれぞれ数10年ほど支配しましたが、後継者に権力を禅譲することができなかったため、長期にわたる朝廷が確立されることがありませんでした。そのような背景もあって、仏教が普及し、また仏教美術が発展する一方、儒教的権威は一時衰退します。また、「竹林の七賢」に代表されるような、世俗を離れた世界で「清談」にふける形式での、老荘思想の隆盛も見られました。

三国時代を経て265年、司馬炎が西晋を建国します。しかし、王族同士の内争で混乱した西晋は、北方から匈奴の侵入を招き、316年、滅亡してしまいます。翌年に西晋の王族の一部が江南へ逃れ、建康(南京)を都に東晋を建国します。420年、東晋の武将・劉裕が帝位を簒奪(表向きは禅譲ですが)し、南朝最初の王朝である宋(劉宋)を打ち立てます。しかし、その後の約170年にわたり、宋、斉、梁、陳と4つの王朝が入れ替わることになります。

一方の北朝が成立する以前には、漢民族ではない複数の異民族が、華北を中心とする長江の以北の土地に割拠して、五胡十六国時代と呼ばれる小国乱立の時代がありました。その中から、モンゴル系の遊牧騎馬民族である鮮卑が386年に北魏を建て、439年に華北を統一してから、さらに約1世紀続きます。北魏が東西に分裂して倒れた534年から、581年までの間に北部の統治権は4回替わります。

北魏は、まもなく漢文化に同化しました。北魏の第7代皇帝・孝文帝(467–499年)は、それ以前のいくつかの漢人王朝が拠点にしていた洛陽に都を移し、漢文化の要素を採り入れながら勅令を系統的に施行していきました。

その一つは、鮮卑の全ての者が、漢の名を姓としなければならないというもので、孝文帝自身、「拓跋宏」という本名を「元宏」に改名しました。また、漢服を着て漢語を話すように勅令をだし、土地を所有する漢族との結婚を奨励しました。政治面では、漢民族による南朝の制度を模して、北魏の政治制度を改革していきました。

南北朝時代は、仏教が隆盛した時期でもありました。5万1千体に及ぶ仏像を収めた一連の目を見張るような洞窟、山西の雲崗石窟は、北魏時代に掘られたものが主で、中国四大石窟の一つに数えられています。仏像は丸顔で彫りが深く、鼻筋が通っており、体つきや姿勢からも異国の影響を受けていることが窺えます。孝文帝が仏教に帰依した後、南北朝時代の後半に造られた仏像は、漢民族の体つきとなり漢服をまとうようになっていきます。

6世紀初め、禅宗の開祖である達磨がインドから中国にわたり、仏教を厚く信仰していた梁武帝に迎えられます。しかし法縁は結ばれず、達磨は北魏を去り、滔々と流れる長江を一本の葦を使って渡るという有名な伝説の下りにつながります。今日でも有名な少林寺にほど近い、嵩山(すうざん)に至った達磨は、石洞の中に入り、壁に向かって9年間瞑想し、悟りを得、禅宗を創立します。禅宗の思想は、次第に儒家とアジアの各宗教に広く影響を与えるようになります。

僧侶が瞑想する一方で、天下大乱は続きました。581年、隋の文帝が北周の静帝を倒し、隋王朝が建てられます。隋軍は南下を続け、南朝の陳を滅ぼして中国全土を統一します。これで300年の分裂と戦乱に終止符が打たれます。30数年後には隋に代って唐朝が始まり、中国史で最も安定し繁栄したとされる時代の幕開けとなるのです。

(大紀元日本編集チーム)
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