【伝統を受け継ぐ】住吉大社「御田植神事」

【大紀元日本7月3日】梅雨の晴れ間、例年通り6月14日に大阪住吉大社の「御田植神事」が厳かに華やかに執り行われた。境内の約二反歩(2300㎡)の神田に田植を行う間、神田中央にある舞台と周囲の畔で様々な芸能を奉納し、稔の秋を予祝する行事である。

神事に先立ち、赤い飾り幕と造花で飾

黒牛による代掻き(撮影・Klaus Rinke)

られた黒毛の牛が白装束の奉耕者に伴われ水田に入り、泥土をならす代掻き(しろかき)をする。現在の米作ではすでに姿を消した風景だ。続いて、第一本宮でお祓いを受けた、総勢300人を超す神事奉仕者たちが行列をなし、神田に渡ってくる。萌黄色の衣装と花笠を目深に被った8人の植女が第一本宮で早苗を預かり、神田に控える奉耕者に手渡す。

こうして、神田では田植が、舞台上では神官によって御田が清められた後、白衣に緋袴の8人の神楽女による巫女舞、田舞が始まった。笛と太鼓に乗せて歌われる

神楽女による田舞(撮影・Klaus Rinke)

田舞の歌声は大らかに伸びやかに田を渡る。歌詞の1部は、清少納言が賀茂参りの途上耳にし、「枕草子」に記録したものと同じだという。「御田植神事」の田舞歌は神楽舞の古風な手振りと伴に、長い時代を歌い継がれ、舞い継がれてきたものであるところが貴重である。

住吉大社の起源、「御田植神事」の由来、時代の変化に連れての歩みなど、住吉大社文教課、権禰宜、小出英詞さんから貴重な話を聞いた。

住吉大社は昨年、2011年にご鎮座1800年を迎えた。住吉大社のご祭神の一つである神功皇后の摂政11年(西暦211)に鎮祭が行われたと「古事記」に記録がある。以来、住吉大社は大和朝廷の玄関口、難波津にあって海の神、航海の守り神として遣隋使、遣唐使など大陸へ渡航する船を守護したといわれる。また、「源氏物語」で須磨に謫居(たっきょ)となった源氏が雷・嵐に襲われ、祈ったのも住吉の神であった。そして、住吉大神のお告げで明石へ居を移すことになったのだ。

「御田植神事」は、住吉大社の歴史とほぼ同時に始まったものと考えられている。住吉大社鎮座の折りに、神功皇后は神に供える米を作る御供田(ごくうでん)を定め、長門国(現・山口県)から植女を呼び寄せ芸能を奉納させたという。その植女が堺の乳守(ちもり)に定住し、そこに遊郭ができた。以来、明治維新に堺の遊郭が消滅するまで、乳守の遊女が植女として奉仕したのである。

維新後の刷新で住吉大社の敷地の多くが民間に払い下げられたが、神田も例外ではなかった。長い歴史を持つ神事を絶えさせてはいけないと立ち上がったのが大阪新町の花街組合で、新しい田を寄進し、新町の芸妓が植女の奉仕を受け継ぐようになった。1979年に神事は国の重要無形民俗文化財に指定されるに至った。

大阪新町の遊郭がなくなった現在では、上方文化芸能協会が植女、稚児などの奉仕を、その他はそれぞれの保存会が継承しているのだという。かつて、きつい田植の労働を軽減するために歌われたが今では消えゆく運命にある、御田植歌と御田植踊り、住吉大社の故事にかかわる風流(ふりゅう)武者行事、紅白に分かれた少年が棒を打ち合う棒打合戦、その昔、全国を勧進して歩いたという住吉踊り、それに、行列を先導するのは江戸時代に大名行列を先導した、毛槍、はさみ箱の奴振りも見事な供奴である。日本の農耕文化の絵巻物さながらに時代時代の習俗をも巻き込んだ大イベントの伝統が地元の子供たちの参加も得て守られているのだ。

日が傾き、最後の奉仕者、住吉踊りの子供たちが賑やかに周囲の畔から退場するころ、水田には早苗が植え揃い、緑の田を涼風が吹き渡ってきた。秋の収穫まで御田を守るのは住吉、住之江のJA関係者で構成される奉耕者の人々である。

住吉大社境内(撮影・Klaus Rinke)

第一本宮でのお祓い(撮影・Klaus Rinke)

行列、神官(撮影・Klaus Rinke)

行列、神楽女(撮影・Klaus Rinke)

早苗を手にした植女(撮影・Klaus Rinke)

神田代舞(みとしろまい)(撮影・Klaus Rinke)

行列を先導する供奴(撮影・Klaus Rinke)

風流武者行事の奉仕者(撮影・Klaus Rinke)

棒打ち合戦の子供たち(撮影・Klaus Rinke)

住吉踊り(撮影・Klaus Rinke)

住吉踊りの少女(撮影・Klaus Rinke)

植女に従う稚児(撮影・Klaus Rinke)

御田植踊りの少女(撮影・Klaus Rinke)

(温)