埼玉 高麗  渡来した花と人々

【大紀元日本10月15日】外秩父の山が近い。都心の池袋から電車で2時間もかからないところだが、ここまでくると、都会の人間にとっては羨ましい、のびやかな田舎の風景になる。

ここに高麗(こま)という地名の郷がある。荒川水系の一つである高麗川という川も流れている。訪れたのは、その高麗川が巾着袋のように蛇行したところから巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれる、曼珠沙華の名所である。

中国からの帰化植物である曼珠沙華(まんじゅしゃげ)は、彼岸花とも呼ばれるように、秋の彼岸のころに見頃となるのが常であるが、夏が猛暑であった年は開花が遅れるという。今年もそうであったらしく、10月初めのこの時期に、見事な満開を迎えていた。

観光パンフレットによると、昭和40年代の後半に巾着田の用地を当時の日高町(現、日高市)が取得して整備したところ、9月頃、一斉に曼珠沙華が咲きそろったという。そうすると、はじめの開花は人工によるものではなく、全くの自然発生だったのだろう。

見頃の花は、無心に眺めているだけでいい。

帰宅後に、あれこれ想像しながら少し調べてみた。群生地として知られる巾着田の曼珠沙華は、高麗川の上流から流れてきた球根が、この場所にたまって発芽したものらしい。一方、日本に存在する曼珠沙華は、遺伝的に同一であるという。つまり日本の曼珠沙華は全て、太古のころに中国から伝わった一株の球根から全国に広がったのだそうだ。

大きな空想が楽しくなってきたので、もう一つ、この地にゆかりのことを書く。

高麗という地名は、言うまでもなく、朝鮮半島から渡来した人々がこの地にいた証である。8世紀初頭の716年、日本史でいうと奈良時代の初めになるが、朝廷は、駿河などの7カ国に居住していた高句麗(こうくり)の遺民1799人を武蔵国へ移した。これが高麗郡の始まりである。

ちなみに、李氏朝鮮になる前の10世紀から14世紀にかけて、朝鮮半島に高麗(こうらい)という王朝が存在したが、いま話題にしている高麗(こま)はそれではなく、668年に唐の遠征軍によって滅ぼされた高句麗のことである。

王朝が滅びれば、難を逃れて大量の遺民が発生する。当然ながら日本にもたくさん来た。しかし、日本がその人々を拒んだ形跡はない。

その理由を想像するに、新田を開発させて租税を徴収するという労働力増加のためだけでなく、彼らが保有する大陸の文化が日本にとって有益であったからに違いない。

この場合の文化とは、インテリの学問ではなく、機織りや作陶、あるいは鋳造などの実技であっただろうが、受け入れる日本にはそのほうが有難かった。そう言えば、奈良の大仏鋳造の指揮をとった国中公麻呂(くになかのきみまろ)は、百済渡来人の孫にあたる。

さらに話を広げて恐縮だが、東京に狛江(こまえ)という市がある。「こま」の発音から想像されるように、ここも高句麗からの渡来人にゆかりのある場所なのだが、こちらの渡来人は、高句麗がまだ優勢だった6世紀初めに来日した人々らしいのだ。

つまり、王朝滅亡によって遺民が発生する以前にも、日本に渡る人々は少なくなかった。関東地方だけ見ても、高句麗系だけでなく、新羅系や百済系などそれぞれの渡来朝鮮人が、幅広い時代に、しかも重層的に存在していたのである。

奈良時代から平安時代にかけて、日本は中国の先進文化を積極的に学んだ。それは主として、日本人の使節団や留学生が持ち帰った知識である。鑑真和上のように命を懸けて来日する中国人も複数いたが、数としては多くない。

日本史のなかの渡来人として圧倒的に多いのは、朝鮮半島からの人々である。その事実を、日本人は心の隅に留めておいて損はない。

近代に入って国家というものが世界地図に線引きをしたため、古代人のような大らかな心が持ちにくくなった。歴史とは、変化ではあっても、発展とは限らないらしい。

(牧)