日本を守った石壁 博多の元寇防塁

【大紀元日本6月5日】日本海に面した九州の博多湾は大陸に最も近い場所。西区今津から 東区香椎までの約20キロメートルにわたって、ところどころに石壁の跡が残っています。近くには大陸との窓口となった大宰府政庁があり、奈良・平安時代には遣隋使遣唐使たちが出立していきました。一方、ここは鎌倉時代に元が襲来してきた場所としても知られています。

古図に大勢の日本兵が弓矢と刀を携えて戦にのぞんでいる様子が描かれている

文永五年(1268年)、元(蒙古=モンゴル)の皇帝フビライ・ハーンは北条時宗に国書を送りつけてきました。当時の蒙古は、東は高麗・中国、西はヨーロッパに至るまで広大な地域を制覇した史上最大の国家でした。一方、その頃の日本はマルコポーロの 「東方見聞録」により、「金が出る国」として諸外国に伝えられていました。実際、日本は大量の金の産出国だったそうです。

蒙古の国書に対して、朝廷では連日会議が重ねられた結果、日本は「返答せず」、つまり無視をするという結論を出しました。しかし、国の意志を明確に示すことが今も昔も外交の基本的なルール。日本としては返事をしないことが断固とした態度であると考えていましたが、相手には通じません。そして蒙古の侵略となります。日本は国をあげて 侵略を防ごうとしましたが、外国と交戦した経験がなかったため、その恐ろしさが分かっていませんでした。

日本では一騎打ちなど独自の戦法を発展させていましたが、 蒙古軍の攻撃には通用しません。蒙古軍は鉦(かね)や太鼓の合図で全員を動員する集団戦法でした。また日本の弓の射程距離が100メートル足らずだったのに対して、蒙古軍の弓は200メートル。しかも弓の穂先には毒が塗られていたと言われています。さらに、蒙古軍には「手榴弾」という発展した技術もありました。

一方、元の命令により戦いに参加した高麗は、わずか10ヶ月の間に900艘の船を造らなければなりませんでした。 これら急いで建造された船は頑丈な中国式ではなく、簡易な高麗式だったため、彼らの災いになったと言われています。

文永11年(1274年)、高麗の合浦(がっぽ)を出発した元・高麗軍は対馬、壱岐を襲い、博多湾に集結しました。対馬・壱岐の人々のほとんどは殺害され、日本軍が矢を撃てないように、わずかに生き残った人(主に女性)は手に穴をあけられ、ひもを通して船のへりに鎖のように結ばれたと言われています。このような蒙古の残虐な行為は世界の至る所で見られ、大変恐れられていました。蒙古の侵略を受けた東ヨーロッパでは今でも当時の恐ろしさを伝えています。

大量の元・高麗軍が日本に上陸し攻め込んできました。しかし、一夜明けると「信じられない出来事」が起こります。攻撃を受けた日本側の武士や博多の市民の目の前に、静まりかえった博多湾が広がっていたのです。湾内を埋め尽くしていた船は、一艘残らず消えていました。大暴風に見舞われ、多くの船が沈み、たくさんの敵兵の命が失われました。 この風は神がおこした風、すなわち「神風」と呼ばれ、その後、敵が攻めてくれば神が守ってくれるという考え方を日本人に植え付けたと言われています。この説は長い間人々に信じられてきましたが、博多湾で嵐にあって沈んだのではなく、元・高麗の艦隊は波の荒い冬の玄界灘で遭難し沈んだのではないか、とも言われています。ともかく、蒙古の大軍は一夜にして沈没し、日本は救われたのです。

元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に博多湾沿岸一帯に築かれた石壁による防塁で、高さ・幅は平均して2メートルほど。総延長は約20キロメートルに及ぶというのが定説になっています。内部には小石が詰められ、陸地側には日本兵が動けるようにゆるい傾斜をつけ海側は敵兵が登れないように崖のように切り立たせています。「元寇防塁」の本来の呼び名は石築地(いしついじ)でした。石築地には楯を並べ旗を立て、河口や波打ち際には乱杭が設けられました。蒙古襲来(元寇)に備えて築かれたもので、二度目の弘安の役(1281年)の際には防塁が築かれたところからは、元・高麗軍は一切上陸することが出来ませんでした。

「神風」は遣隋使・遣唐使たちが持ち帰った、今でも日本に保存されている人類共通の遺産を守るための神の按排だったのかもしれません。元寇防塁は1933年に国の史跡に指定されました。

昔、怒涛のような戦場だった海岸にも今は静かに花が咲いている

手前が能古島、奥に志賀島が見える。この湾が元の船でうめられた

(翻訳編集・梅花)