唐文化が日本文化にもたらしたもの(下) 

長安を手本にした首都建設 

大化の改新を経て、次第に律令国家として確立していった日本は 唐の影響を受け、日本の省庁は、戸籍や徴税を加えることで徐々に充実していった。 そして長安の条坊(都城の市街区画)の配置に沿って、最初の正式な都である藤原京を建設した。

さらに奈良時代になると奈良の都、平城京を造営した。 平安時代以降の都は平安京(現在の京都)で、明治維新で東京に遷都されるまでの間、都が置かれていた。 首都は南北軸に沿って左右に建物が配置され、北は中央に王宮、南部には東西の市と官衙(官庁)が配置されていた。

405年、朝鮮半島の百済王国の学者、王仁が『論語』と『千字文』を大王(おおきみ)に献上したことが、日本に漢字が正式に伝わったとする説が有力である。

日本の王族や貴族に漢字が導入されると、大王の詔勅、国史、律令などがすべて漢字で書かれるようになり、漢字が普及した。中国の文化は日本に、初めに雛形を現わすことを促進した。

歴史を振り返ってみると、日本の遣隋使、遣唐使は、当時の日本のエリート層を代表する王室の官吏、学者、僧侶、技師などであり、彼らの往復によって中国文明は日本に広く伝播した。

これらの日本の中心的な知識層は中国を敬慕し、唐の文化を見習って、中原の国風、文体を模倣し、当時の中国の最も核心的で、最も本質的な文明——敬神崇仏、天地の秩序、人倫綱常などの理念を、そのまま東瀛(日本の雅称)に植えつけた。

神を尊んで、仏を敬う理念に基づいて派生した思想は、日本の建築、文学、暦、絵画、風俗などの方面にも影響した。したがって日本の当時と後世の全体的な文化の姿を築いた。

このように日本文化にとって古代中国文化の数千年風雨の洗礼を経て、現在に至っている。

(翻訳・源正悟)