道徳を重視した陶の母

【大紀元日本6月18日】晋の時代の将軍・侃(とうかん)の、湛(たん)氏は豫章(現在の江西南昌)の生まれである。陶の家は非常に貧しかったが、湛氏はいつも麻の繊維を糸状にねじ上げ、お金と交換していた。そしてそのお金で陶侃を養い、彼に才徳のある人たちと付き合わせていた。

陶侃は若い時、洵陽(現在の九江県)で魚の捕獲を管理する官_li_をしていた。その期間、彼は母に瓶いっぱいの塩魚を贈った。すると湛氏は塩魚を陶侃に返し、手紙で彼を責めたという。「あなたは官_li_の身でありながら、国の物を私に贈るなど、私を喜ばせるどころか、返って私に精神的負担を増やしているのですよ」

ある日、孝行清廉な范逵(はんき)という有名な人物が、陶侃の家で宿を借りることになった。范逵には随行する使用人と馬がたくさんいたが、陶侃の家は非常に貧しく、彼らをもてなすものは何もなかった。しかし、湛氏は陶侃に「あなたは表で来客に応対していなさい。私には考えがあります」と言った。

湛氏は垂らしたら地面に着きそうなほど長い自分の髪の毛を切り落とすと、鬘を二つ作り、それを売ったお金でお米を買った。また、部屋を支えている柱を半分に割ると、薪として燃やした。莚で出来ている敷物をこなごなに砕くと、馬のえさにした。彼女は立派な食事と酒を取り揃えて来客をもてなし、随行の使用人にも料理をふるまった。

范逵がこのことを知った後 「このような母でなければ、陶侃のような素晴らしい息子は生まれてこないでしょう!」と感嘆した。范逵は洛陽に着くと、陶侃親子の名声を広めたという。陶侃もこのことでより高い官職に就き、後世に名を残した。

(翻訳編集・天池 花蓮)