自分の過ちに気づき、生まれ変わる(一)

【大紀元日本4月8日】自分の過ちに気づき、絶えず向上すること―これが、古代中国から伝わった「」の精神です。自分の欠点に正面から向き合うのは、気持ちのいいものではありません。しかし、古代には、こんな言葉があります。「誰が過ちを犯さないというのか?自分の過ちを認識し、改善できる人物こそ賞賛に値する」。それを続けることができれば、すでに道を得ているのです。4回のシリーズで、過ちを改めた古代の人物の物語をご紹介します。

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皇甫謐(こうほひつ)の母は、彼が幼いときに亡くなったため、彼の叔父と叔母が彼を育てた。彼は青年になると、頻繁に友人たちと遊び歩くようになった。彼は20歳になっても、成年男子が身に着けるべき歴史、哲学、文学、道徳、宗教などの教養がなかった。

ある日、皇甫謐は甘いウリの実がなっているのを見て、母親に献上した。すると、ウリを見ながら母親は泣いた。「お前はすでに20歳になるというのに、何の教育もありません。時間を無駄にしているのを見ると、私はとても悲しいのです。孟子の母は子供の教育のために3回も引っ越しをしましたが、私たちはお前のために、よい場所を選ばなかったと言うのですか?本当によい息子になりたいのだったら、一生懸命、学びなさい。なぜお前は経書を学び、徳を修養しないのですか?」

皇甫謐は母の言葉に胸を痛め、深く反省した。そして、彼は今までの生活を改め、これからは精進し、決して時間を無駄にしないと母親に約束した。その日から、彼は片時も本を離さず、一日たりとも休まずに読書に勤しんだ。野良仕事をするときも、休憩の時間があれば熱心に本を読んだ。彼は、本を読めば読むほど志が強くなり、心が落ち着いてくるように感じた。

彼は歴史、道徳、古典、医学など百家の思想に通じ、26歳で学者となった。そして、莫大な文章の執筆に励むようになる。「帝王世紀」、「高士伝」、「列女伝」「陰陽暦術」「針灸甲乙経」など、後世に残る有名な文書を多く残している。

皇甫謐は優秀な学者として広く知られるようになったが、常に控えめで、名利に対しては淡泊だった。より名声を高めるべく、社交の場に出るよう友人たちが促したが、彼はシンプルな生活を望んだ。

何度も仕官の要請があったが、丁重に辞退した。彼は皇帝への書簡の中で、「賢帝は、真実を述べる、勇気ある大臣に恵まれ、その寛大な政策は、国を憂う人々を呼び寄せるといいます。陛下は賢いお方であらせられますから、どうか私には執筆と、医学に専念することをお許し下さい」。皇帝は願いを聞き入れ、彼に荷車いっぱいの本を授けた。

彼は骨身を削り、熱心に読書と執筆作業に力を注いだ。彼は知人たちから、そんなに精魂こめると命を縮めるよ、と諭されると、「朝に道を聞けば、夜に死すとも可なり。人間の寿命は、天が決めているものですよ」と答えた。

名利や利己心を捨てれば心が軽くなり、長生きできる。富や権力から離れれば、真の「道」を悟ることができる。彼が残した人生の知恵と養生法は、現代にも通じるだろう。

(翻訳編集・郭丹丹)