【大紀元日本7月23日】

上古時代の「羲扇」

扇子の由来は諸説あるが、広く伝わっているのは、上古時代に女媧(じょか)が造った「羲扇」(ぎせん)である。これに関して、唐代の『独異志』には次のように記載されている。「天地が形成したばかりの時、地上には伏羲(ふっき)と女媧の二人だけが存在した。二人は昆侖山で草を燃やし、天に祈った。『もし我々が夫婦になることが許されるなら、煙は一本になり、もし叶わないとしたら煙は四方に散ってしまうだろう』。すると、煙は一本に纏まって立ち上った。すると女媧は草を編んで扇子にし、この扇子で顔を隠し伏羲と夫婦となった」。 つまり、最初の扇子は草を編んだもので、女性の恥じらいを隠すために使われたのである。後世、このような扇子は「羲扇」と称されている。

徳政を由来とする「蒲扇」

尭帝(ぎょうてい)の時代、帝は徳で天下を治め、天上の神も彼を褒め称えた。そのため、国中に様々な良い兆しが現れたという伝説がある。その一つは、自然に萐莆(しゃふ)という大きな葉っぱの草が生えたというものである。その草が揺れると、涼しい風が生じ、食物を冷やして腐ることがなかったという。庶民はその葉で扇子を作り、「蒲扇」(ぷせん、ガマの葉で作った団扇)が生まれたという。

舜帝時代の「五明扇」

尭帝後の舜帝(しゅんてい)は天下の賢者を招き、見聞を広げることに努力し、その象徴として「五明扇」(ごめいせん)を作製した。五明とは東、西、南、北、中の五つの方位から庶民の意見を聞くことを意味する。舜帝は各地方を視察した時、いつもこの扇子を携行していた。後代になり、「五明扇」は王侯や公卿たちの儀仗扇に変わり、秦朝と漢朝の時代には公卿、士大夫らは扱えるが、魏晋の時代になると、輿を司どる者にだけ扱うことが許された。

商周時代の「羽毛扇」

殷商の時代、キジの尾羽で作った色とりどりの「雉尾扇」(ちおせん)が現れた。しかし、キジの尾羽を手に入れるのは難しく、このような羽毛扇は非常に珍しい存在だった。西周の時代に白い羽毛で作った扇子が現れ、周王はこれを儀礼の用具として使った。そのため、「儀仗扇」(ぎじょうせん)とも呼ばれた。

漢代以後の扇子の多様化

漢代以後、扇子の形と構造は多様化し、四角形、円形、六角形などが現れた。材料も絹織物や紙、動物の骨、玉石、象牙、竹などが使われるようになり、大量生産が可能になった。職人が作った扇子は庶民の間でも普及し、装飾品や贈答品としても使われるようになった。同時に扇子を詠う文学作品も現れた。例えば、漢代の傅毅の「扇賦」、班固の「竹扇賦」、蔡邕の「団扇賦」などは扇子の精巧さとその効用を賛美している。

折り畳みできる「折扇」の出現

北宋の時代になると、折り畳みができる「折扇」(せっせん)が現れた。南宋時代になり、折扇の生産量は相当な規模となり、扇面に絵を描く絵師や扇子の専売店、収蔵家も増加した。こうして、扇子は日常用だけでなく、芸術品としても好まれるようになった。清代以後、扇子の形はより複雑になり、円形以外に長い円形、楕円形、方円形、梅花の形、ヒマワリの花の形など多様化した。

(翻訳編集・重本)