【紀元曙光】2020年1月14日

寂しさにたえたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里(新古今)
▼歌意「このような草庵に住まう寂しさに耐えている人が、私のほかにもいてほしいものだ。その人と、庵を並べて住みたいなあ。この冬の山里で」。
▼よみ人は西行(1118~1190)。もとは鳥羽院の近くに仕える北面の武士、つまり栄誉ある近衛兵であった。武門の出であり、しかも名家であることは、西行から数えて8代前の祖先に、関東で反乱を起こした平将門を破る武功を上げた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)をもつことからも伺われる。
▼しかし、何の思いからか23歳で出家してしまう。とは言え、どこかの寺に入って苦しい仏道修行をするのでもなく、気ままな漂白の旅に身を置き、好きな歌を詠み、各処に草庵を結んで住んだ。自領の荘園からの収入があるので、旅費と食に困ることはなかっただろう。
▼中世の隠者は、多くの場合、裕福であるか、少なくとも生活に困らない経済的基盤をもっていた。また「隠者」というように、本当に人との交わり絶ったかというと、そうではない。この歌も「気の合う隣人と一緒に、侘び住まいを楽しみたいなあ」などと言う。なんとも趣味的な隠者ではないか。
▼それを咎めるつもりは全くない。彼らは出家であろうが世捨て人であろうが、実質的に歌詠みであり、随筆家だった。また、自身がものした著作が当世で評価され、後世に遺したいという当然の願望をもっていた。小欄の筆者は、中世の隠者文学を大いに好む。ただ、つけ加えるなら、彼らは芸術家ではあったが、本来的な修行者ではなかった。