【紀元曙光】2020年2月21日

いつの間にか、梅の見頃になっていた。中国の肺炎騒ぎに気をとられて、日本にいる自身さえ平常でなくなっていたのかと、いささかの反省とともに思う。
▼季節の花が、季節通りに咲く。そんな当たり前のことが、今はとても嬉しい。大いなる自然は、人間が慌てふためいているときも変わらずに時季を告げてくれる。ただ人間の側に、それを気づくだけの余裕があるかどうか。私たち日本人は、今どうであろう。
▼「行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。鎌倉時代前期に書かれた鴨長明の随筆『方丈記』の冒頭である。無常観という、中世文学を貫く一大テーマがこの序文に凝縮されているという。
▼養和(ようわ)年間(1181年)の頃、大規模な飢饉が日本を襲った。そのときの京都市中の様子を『方丈記』は克明に記録している。以下、一部を要約する。
▼「前年から作物が全く実らない。今年は疫病がはやり、飢餓地獄となった。物乞いに歩いている人が、ばったり倒れる。賀茂の河原は死骸で埋まり、馬や車の通る道もない。仲の良い夫婦は、愛情の深い者が先に命を落とした。わずかな食物を相手にゆずるからである。親子ならば、同じ理由で、必ず親が先に死んだ」
▼およそ840年前の、わが日本の実景である。令和の現代から見て、遠いか近いかは各人の考えにもよるが、小欄の筆者は今とても身近に感じている。諸行無常というように、人の世は「朝顔の露」のごときものかも知れない。ただし、今を生きる者として、現代を担う責任からは逃れられないと、反省の後ながら、自覚している。