【紀元曙光】2020年3月10日

東京の下町を流れる隅田川。浅草に近いところに、その川をまたぐ言問橋(ことといばし)という橋がある。
▼名前の由来は、平安時代初期の古典『伊勢物語』から。在原業平(ありわらのなりひら)らしき主人公が、はるばる都から東国へ下ってきて、この隅田川に至る。白い鳥を目にしたので、その名を尋ねると、渡し舟の船頭は「都鳥ですよ」と答えた。
▼都鳥と聞くと、京の都へ残してきた思い人への情念がほとばしって、主人公が詠んだ歌は「名にし負はばいざ言問はむ都鳥。わが思ふ人はありやなしやと」。舟の上で、旅の一行の男たちは、みな涙を流した。「ありやなしや」とは、存命であるか、死んでしまったか、という切実な問いかけである。
▼時代は下って、今から75年前。1945年のこの日、東京大空襲と呼ばれる米軍の猛爆撃があり、東京の下町一帯は火の海となって約10万人の民間人が死んだ。私事ながら、小欄の筆者の親族も5人、その10万人の犠牲者に含まれている。
▼言問橋の上にも、黒焦げになった死体が累々と重なった。猛火に追われ、川の両岸から逃げてきた大群集が橋上でぶつかり、身動きがとれない側面から火災旋風が襲いかかって、さながら火炎地獄となったことによる。
▼言問橋のたもとの石柱に、今も黒く、焦げ付いた跡を目視できる。地元の言い伝えでは、この場所で焼死した人々の脂が焼け付いたものだという。それが本当かどうかは知る由もないが、ここで起きたことは疑いのない史実である。筆者も、その場所へ行き、何も語らぬ黒い焦げ跡に、手を置いてきたことがある。