【紀元曙光】2020年6月30日

(前稿に続く)司馬遼太郎さんが『街道をゆく 韓のくに紀行』に、面白いことを書いている。東アジアで普遍的に見られる「汚職」についてである。
▼70年代の初めに韓国を旅した司馬さんは、大邱(テグ)のホテルで、マッサージを頼む。法外な値段を前金でぼったくられたな、と知りながら、その体験から見える儒教社会の実相を、司馬さんは「微笑んで」書いている。
▼「念のためにいうが、ブッキッシュな意味での儒学ではない。(中略)孔子や孟子、朱子、王陽明というのはあくまでも偉大であるが、現実の体制としては救いがたいほどにこまった面をもっている」。儒教の本元は、もちろん中国。それに続く儒教の優等生が朝鮮で、劣等生が日本、と考えてよい。
▼司馬さんの言う儒教社会の「こまった面」とは、体制として、汚職が「正位置」をもっていることだ。日本にも、もちろん汚職はあるが、大した規模ではない。先日も、広島県だったか、元法相から金を受け取ったとかで大勢の地方政治家や首長が、安っぽい頭を下げていた。日本は、せいぜいこの程度であろう。
▼韓国や台湾にも当然、汚職は無数にある。ただ両国とも、国の大きさが巨大ではなく、人口も数千万というほどよい数なので、教育と法制度を整えれば、社会は運営できる。ところが中国大陸は、そう簡単ではない。中共が消えても、すぐに正常な普通選挙ができるわけではないのだ。
▼儒教という、現世だけを扱うブッキッシュ(書物上の)な思想には限界がある。ゆえに汚職も不正も消えない。そこに、天や神仏を敬う、信仰という実践的道徳が必要なのだ。(次稿へ続く)