【紀元曙光】2020年8月5日

(前稿より続く)司馬さんもまた、「日本人とは何か」を探求し続けた人だった。

▼新渡戸がなぜこの一書を著したかについては、「第一版の序文」に、明確な理由が記されている。「日本の学校には宗教教育がない」という新渡戸の答えに、ベルギーの著名な法学者ド・ラヴレー教授は驚いた。「それでは、日本人はどのようにして道徳教育を授けるのか」。
▼それに対する新渡戸の答えが、『武士道』ということになる。現代に至っても、例えばどこかの外国で、「あなたの宗教は?」と聞かれた場合に、no religion(無宗教)と答える日本人は少なくないらしい。その答えにウソはないのだが、相手(例えばキリスト教圏の人)は「あなたは神を信じないのか」と態度が変わる。
▼日本人は、宗教に関しては、食材を大鍋に放り込んで煮るように、ずいぶん無茶なことをしてきた。神仏習合も、本地垂迹説も、また明治初めの神仏分離も、日本以外の他国ならとてもできそうにない。一応、わが日本人の名誉ために付言するが、厳格な寺院で命をけずるような修行に励む僧侶もいる。志願して禅寺にきた新到(しんとう)は、入門を許されるまで玄関先で何日でもねばり続ける。
▼ただ、多くは檀家仏教で、世の中は動いている。それはそれで良いのだろうが、もはや宗教ではなく営利事業である。仏弟子の名である戒名が、僧侶へ渡すお布施の多寡によって階層が決まるなど、仏陀の教えとは思えない。
▼社会の秩序を保ち、民度を高める道徳教育を、日本人は別のところから引いてこなければならなかった。武士道は、その水源となった。(次稿へ続く)