司馬遼太郎没後27年 今に生きる「自分がその国に生まれたら」という想像力

2023/02/10
更新: 2023/02/28

司馬遼太郎さんが亡くなったのは1996年2月12日であった。今年は没後27年になる。

「その国に生まれたら」と想像する訓練

著名な作家につけられる忌日としては、司馬さんの代表作『菜の花の沖』にちなんだ「菜の花忌」がある。今年の菜の花は、春寒の続く日々であるため、まだ咲いていない。

「国民作家」と言われた作家の72歳での逝去は、多くの日本人に惜しまれた。

司馬さんは、人間をこよなく愛した人であった。水泳がお得意であったかどうかは存じないが、有史以来の人間が築き上げた「歴史の大海」に、頭から飛び込んで自由に泳ぎまわることを無上の喜びとした。

とくに中国人や朝鮮人に対して、司馬さんは限りない親しみと好感をもっていた。「彼らは非常に人間というものを感じさせたから」ということを、後年よく語っている。

では、なぜ司馬さんがそう思えるようになったかというと、これも司馬さん自身が映像に残るかたちで話していることだが、少年のころから「ある訓練」を自分に課してきたことによるらしい。

ある訓練とは「自分が、もしもその国に生まれたら、を常に想像すること」だという。

中国に生まれたら中国人になり、朝鮮半島に生を受けたら朝鮮人や韓国人となる。そうした「その国に生まれた自分」を仮想してみる訓練を、努めて自己に課してきたのが福田定一少年、つまり子供のころの司馬遼太郎さんだったのである。

その「訓練」のおかげで、学校の授業を受けることは大の苦手だったらしいが、読書好きで想像力の豊かな、さまざまな人間とそれを育んだ郷土に深い愛情と関心を寄せる稀代の作家が誕生することになる。

司馬さんは、もとより作品中で政治を論ずる人ではない。中国について言えば「8億の人民がきちんと食べられて、平穏に暮らせればいい」と考えていただけである。それだけの理由で、毛沢東や中国共産党を概ね是認してはいた。

ただし、それは見聞できる情報が限られていた当時のことであり、まして中国共産党を思想として支持していたわけではない。司馬さんはただ「中国人が、人間として好きだった」のである。もちろん韓国人も、台湾人も、日本人についても、同様であった。

李登輝さん」を困らせた質問

こんな微笑ましい場面の描写が、司馬さんの『台湾紀行』のなかにある。

『台湾紀行』は今から30年前、「週刊朝日」の1993年7月から1994年3月に連載された。ここで司馬さんが「李登輝さん」と呼ぶのは、もちろん一国のプレジデントである台湾の李登輝総統である。

「李登輝さん、もし大陸中国が」と、私はきいた。「いっそ養ってくれませんか、と言ってきたら、どうします」。むろん、この仮定は、おとぎばなしである。

ところが、このひとは、「あ、あ、あ」と両掌をあげて、笑顔の前であわただしく左右にふった。仮定の話とわかりつつも、正直にこまっている様子であった。答えは、それだけに終わった。

大陸の人口は、11億というが、推算によっては13億ともいう。その人口の1割でも土石流のように台湾になだれこんでくるとすれば(中略)ひとたまりもない。

両者のあいだに戦争がはじまるという仮定よりも、この平和、それも抱擁のような熱い平和という仮定のほうが、おそろしいかもしれない。(引用以上)

日本から訪れた司馬さんも、相手が総統であるため始めは緊張気味でいたのだが、先に打ち解けてくれたのは「李登輝さん」のほうであった。その話しぶりは、いつしか「旧制台北高校の学生ことば」になっていたという。

もとより、李登輝総統が司馬作品の愛読者であったことも奏功している。それ以上に、二人は同世代であり、ともに日本陸軍の少尉として学徒出陣の経験者であることも親しみを増す要因になったようだ。

「抱擁のような平和」の恐ろしさ

大正12年(1923)生まれの司馬遼太郎さんは今年8月7日には生誕百年を迎えるので、その関係の書籍が、これから書店の特設コーナーに高く積まれるであろう。

それについての言及は別の機会にまわすことにして、本記事では上に引用した司馬さんの言葉を、21世紀の今であるからこそ、ひとつの警世として想起しておきたい。

司馬さんは「両者のあいだに戦争がはじまるという仮定よりも、この平和、それも抱擁のような熱い平和という仮定のほうが、おそろしいかもしれない」と書いた。両者とは、もちろん台湾海峡をはさんで対峙する台湾と大陸中国である。

言葉を補って読めば、台湾にとって、大陸側のほうから「抱擁のような平和」を提示してくることは、中共の恐ろしい罠であることを示している。

蒋介石時代には「大陸反抗」つまり台湾の国民党軍が対岸へ攻め込み、広大な中国大陸を奪還することを国是としていた。もちろんその夢想は全く現実的ではないとして、李登輝総統の時代に捨てた。いまや台湾に対して硬軟あわせて触手をのばすのは、ひとえに中共側のほうである。

司馬さんはここで、自由主義経済のもとで着実に発展を遂げる台湾に対して、中共が秋波を送って台湾人の心をとろかせ、「抱擁のような平和」に誘惑することのほうが恐ろしいと述べた。あくまで想像であるが、具体的には、台湾から大陸への投資を呼び掛ける、台湾の政財界へ浸透して台湾を実質的に掌握する、などを指すのではないか。

先の引用部分に戻る。それは李登輝氏という20世紀に出現した稀有な哲人政治家との対面に際して、台湾と大陸との緊張関係を念頭におきながら、言葉を厳選して発した司馬さんの、心からの懸念であった。

「中共消滅後の中国」を想定しておく必要性

言うまでもなく、台湾の未来は、ひとえに台湾人によって決められるべきものである。

それ以外に付言する結論はないが、それにしても不思議に思われるのは、かつては中国大陸で中共軍と壮絶な戦闘をした国民党(現在は野党)が、李登輝氏没後の台湾においては、親中とは言わないまでも、大陸の共産主義政権に対して宥和的な姿勢をとっていることだ。

それはともかく、このときの司馬さんの懸念は、ほとんど同様のかたちとして、日本と中国との関係についても言えるのではないだろうか。

まさしく、現行の日中関係においても「この平和、それも抱擁のような熱い平和という仮定のほうが、おそろしいかもしれない」のである。

日本は1972年の日中国交正常化以来、50年にわたって「日中友好」という平和を刻んできた。しかし、その結果はどうであったろう。日本人は、この「友好」や「平和」に、あまりに美しい幻想を抱いてはこなかったか。

中共政権下の中国は、個人レベルでの友情は別としても、日本をとことん利用するという目的で本来の悪魔性を隠し、巧みに「友好」を演じただけであった。

日本は、中国という大市場で日本製品が大量に売れるだろうと算盤をはじく一方、安価な日用品をはじめとする物品の製造工場としてしか中国を見てこなかった。新疆でウイグル人を酷使して作られた綿花が輸出用の衣料になっていることなど、つい最近まで、日本人は「想像力」さえ及ばなかったのである。

日本は今、相手をよく見るところから、日中関係を再考しなければならないのではないか。

さらに言えば、日本と中国との真の「友好」は、中国共産党が消滅した後の、今より自由にものが言える状態になった新生中国との間で、時間をかけて再構築すべきであろう。

言うまでもないが、反日や仇日を扇動することで政権を延命させてきた中国共産党が存在する限り、日本と中国の正常な隣国関係はあり得ない。

それは私たち日本人にとっても、真実を知り得ない中国人にとっても、誠に不幸なことである。

それゆえに「中共消滅後の中国」を想定しておくことが日本の喫緊の課題であるとともに、日本は今すぐにでも「滅ぶ中共との腐れ縁」を断ち切らなければならない。それは、なぜか。

中国の歴代王朝は、帝王の徳が損なわれるにつれて衰亡し、最後はこなごなに砕けて滅んだ。そこで帝王の姓が易(か)わるので、これを易姓革命と呼ぶ。すべては天帝(天上の最高神)が地上の帝王を評価し、その行状の善悪を裁くことによって王朝の末期が決まる。中国人は、歴史をそのように考えてきた。

もう間もなく、中国共産党という隋の煬帝にもまさる暴政王朝が裁かれる。そうした天の裁きの前に、日本が「中共の共犯者」と見なされてはならないからだ。

滅びる国を象徴する「鬼城

慧眼の作家・司馬遼太郎氏は、最近の27年間の中国を目にすることなく鬼籍に入られた。

89年の六四天安門事件は別として、99年から続く江沢民と中国共産党による法輪功迫害の暴挙も、昨年12月までのゼロコロナ政策が招いた阿鼻叫喚の惨状も、幸か不幸か司馬さんは、現世においては見ていない。

見ればきっと中国人のために深く心を痛め、あの白髪を横に揺らしながら「アホかいな」とつぶやくだろう。

司馬さんの最晩年は、バブル景気に狂うあまり不動産投機の対象にされた日本の土地問題への警告に、ほとんどが費やされた。「このままやったら、日本は滅ぶで」と本当に思い詰めていたことを、みどり夫人が司馬さんの没後に語っている。

そうであればこそ、おそらく司馬遼太郎さんの心のなかには、自身が好きでたまらない中国と中国人への思いが重層的につのっていただろうと想像する。

いま中国のあちこちには、造りかけで放棄された高層マンションが巨大な幽霊のように林立している。これを中国語で「鬼城」と書く。

鬼城とは、ただ人がいないだけのゴーストタウンではない。それは人間の限りない欲望と恨み、極度に濃縮された怨念が積み上げられた恐るべき形象であると言ってよい。

司馬さんの晩年の懸念はもちろん日本の土地問題についてであったが、その最悪の結末を具現する光景が、思いがけぬかたちで中国に出現することになった。中国では、土地は国有であるが、住宅となる建物は自由売買される。日本との違いは、そこだけである。

 

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。
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