【紀元曙光】2020年8月23日

(前稿より続く)中国人は、実にとらえどころがない。
▼それは同一民族のようで、細かに見ると全く同じではない。対外的(とくに反日)に怒りを示威する時だけまとまるようだが、その実態は砂粒のようにバラバラである。
▼実質的な市民権が付与されておらず、「国民」「市民」という意識が極めて希薄であるため、成熟した社会にはなりにくい。いや、彼らにも重要な「社会」はある。ただしそれは近代市民社会ではなく、宗族や親族、さらにそれを友人・知人にまで敷衍した人間のつながりを指す。中国語で、まさに関係(グヮンシ)という。
▼店の商品でも災害時の配給物でも、少ないモノを求めて殺到する場面では、猛牛の群れのような獣性をむき出しにして、すさまじい奪い合いとなる。「そうしなければ、ここでは生きられない」と当人たちは言うのだろうが、それにしてもひどい。
▼読者諸氏は、中国人がお好きであろうか。小欄の筆者は、中国人が嫌いである。あれほど騒々しく、傍若無人で、周囲に迷惑な人間は、おそらく他にはいない。金と権力しか信用しないので、人間関係を築くにも、その相手が自分に利するか否かを腹の底で判断する。初対面でも、無遠慮に「あんたの給料いくら?」と聞く。中国人同士ならそれも良かろうが、日本人は閉口する。困った人たちである。
▼同時に、こうも思う。大紀元のもの書きである筆者の周囲には、中国出身の同僚が多くいる。彼らは心優しく、人間味ゆたかであり、つきあっていて実に楽しい。そうすると、筆者は中国人が好きということになる。嫌いも好きも、どちらも本心なのだ。(次稿に続く)