【紀元曙光】2020年11月16日

宗教のことではなく、純粋に「信仰」について書く。
▼人間にとって、それが基本的人権と法文化されるはるか以前の古代から、信仰は不可欠のものだった。人間は、まことに弱い。しかも欲望を内在する生き物であるため、その行為が良くないと分かっていても、自己の弱さに負けて悪いことをやってしまう。実に困ったものである。
▼信仰をもつ、つまり頭上のはるか高いところに「神」の存在を意識する。その相対的関係から、地上の人間を微小で未熟なものと見なし、自己のふるまいを謙虚にすることができる。「神様が見ている」の意識をもつか、もたないかで、人間の行動が善にも悪にもなる。ゆえに、人間が善であるためには、神を敬う「文化」を子子孫孫にわたって途絶えさせてはならないのだ。
▼この場合の「神」は、時に「天」と言ったり「仏様」と呼んだりもする。今は宗教の話ではないので、どう呼んでも良い。人間にとっては、慈悲深くも、一たび怒らせると非常に恐ろしい存在である。いただきたくないものだが「天罰」「仏罰」などという言葉が、かつては日本人の身近にあった。ただ日本の場合は少々特殊で、日常生活レベルの道徳は「それをしたら恥ずかしい」という武士道に代替されている。
▼共産主義や社会主義体制の国では、無神論が信仰を絶滅させた。欧米諸国では、進化論が本来の信仰を変質させてしまった。言うまでもなく「万物は神がつくり給うた」を不変の原点としなければ、健全な信仰は成り立たない。
▼米国の大統領選挙が、もはや政治ではなく、神と悪魔の戦いとされる所以である。