【紀元曙光】2021年1月23日

1556年1月23日、中国で華県地震という巨大地震が起きた。
▼年号でいうと嘉靖(かせい)34年12月12日で、明朝の後期に当たる。震源は華山(かざん)付近と推定され、現在でいう陝西省と山西省の被害が甚大だった。
▼465年前の災害であり、被害の全容は明らかでないが、稀有な規模の地震であるため記録は比較的多く残されている。北京の朝廷に報告された死者数は83万人に上り、地震の犠牲者数としては世界史上最多。実際の死者数がそれ以上であることは疑いない。厳寒期の早朝で、就寝中の住居が無数に潰れたほか、地震で山が崩れ、川を堰きとめたことにより大洪水にもなった。
▼華県地震が起きたのは、明の第12代皇帝・嘉靖帝(1507~1567)の晩年であった。15歳での即位から在位45年は、明代皇帝のなかでも万暦帝(在位48年)に次いで長い。嘉靖帝は、もとは凡庸な人物ではなかったが、即位以来あまりの重圧と難題の多さに政治を疎み、晩年になるほど道教に耽溺した。最後は長年のんだ丹薬の中毒で死ぬ。
▼そんな嘉靖帝にとって、遠く伝えられる地震被害がどれほど大きくても、さほどの関心は向けなかっただろう。崩御した先帝に嫡子がなく、その先帝の従兄弟(嘉靖帝)に皇帝の座がまわってきた。そのため即位直後には、儒教の最重要事である父への祭祀で、「実の父」と「先帝の父」いずれを対象とすべきかが大問題となる。
▼内政は、装飾的な皇帝をかつぐ宦官と官僚が実施。対外的には北虜南倭(ほくりょなんわ)の圧力あり。まことに気苦労の多い皇帝だった。