【掌編小説】月と遊ぶ  李白「月下独酌」より

 長安の市街から西へ、春の野道をどれほど進んできたか。

 「今夜は、よい月が出るな」。そう思い立ったときは頭上にあった太陽だが、気に入った酒肴の用意やら何やらで時間をとられ、今はすでに大きく西へ傾いている。旧知の友には「今宵は白(はく)を探すなよ」と、わざわざ自分が独酌を楽しむから今夜は邪魔するなと予め伝えておいた。そんなところが、妙に念が入っている。

 あきらかに奇人の部類に入るが、友人にはなぜか疎まれない。そこがこの人物がもつ底知れぬ魅力らしく、「ならばこれを飲め」と李白が日頃から好んでいた酒の一樽を送ってくる友人もいた。

 牛車の荷台に寝転んでいるので、徒歩の疲れはないが、不意をつく轍の揺れのひどさにはまいってしまった。そんな道が五里も続くと、体の骨格がこわれそうになる。亀の甲のような、なだらかな丘の上まできて荷を下ろした。着いた嬉しさのため、牛車を御してきた農夫に、はじめの約束より多めの銭をわたす。農夫の爺さんは喜び、それを両手で受け取ると、牛の頭の向きを反転させて、今きた道を足早にもどっていった。それもそのはず、夜道で狼に囲まれてはたまらない。

 遠くなる牛車の影。こんな無人の丘で、わざわざ夜を迎えようとする人間の酔狂に、農夫の爺さんは、もちろん関心さえもたない。荷台から下したのは、ひとかかえもある酒壺と友人からの差し入れの一樽。ほかに干魚や岩塩、干し肉。酒をくむ夜光杯。

 むしろを延べ、そこに坐すると、もはや李白は大地と天空の人になり始めていた。三月とはいえ長安の春はまだ浅く、風は冷ややかだが、李白は寒さを感じない。月明りがやけにまぶしく、見える星は少なかった。

 月下独酌。李白このとき44歳である。

 「花の香る広野で、一壺の酒をかかえ、ただ一人、酒杯をすすめる。今宵は、語り合う友もいない。盃を高く上げ、月を友として迎えれば、我と、我が影と、三人になるではないか。しかし、月に酒のうまさが分かるわけでなし、影は我が身にくっついているばかりで面白くはない。無粋な二人であるが、まあしばらくは、これを連れ合いにして、春の好季節を楽しみ尽くそう。我が歌えば、頭上の月はぐるぐると回る。我が舞えば、我が影も地面で踊る。酔いが足らずまだ醒めている時は、我ら三人、互いに喜び楽しむが、本当に酔って寝てしまえば、それぞれ別れ別れになってしまう。月も影も、人情のある人間ではない。ならば我らは永く、こうして世俗を離れた無情の交友を結ぼう。別れても、はるかな天の川での再会を期そうではないか」。

 夜が明けた。さほど飲んだ記憶はないが、丘の上で李白が目覚めたとき、酒はほとんど残っていなかった。月は西へ沈もうとしている。暁光に影も消えた。

 「あいつらめ。飲み逃げしたな」。李白は、そう思うことにした。(了)

 (鳥飼聡)