高智晟著『神とともに戦う』(2)「いつになったら腹一杯食えるのか」

 

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私は1964年、陕西省北部の農村に生まれた。それは中国人誰もが貧しかった時代。なかでも我が家は特に貧乏だった。記憶の中の父は、オンドルの上でいつも「いつになったら腹一杯食えるのか・・・」とぼやいていた。

私が10歳のとき、父は逝った。父が入院していたころ、もう我が家は破産状態だった。父の死亡時、病院には80元の未払いがあったので、遺体さえ引き取れない始末に。当時の80元は価値が高く、まして我が家にとっては天文学的数字であった。確か当時、馬という姓の教師のお兄さんが人民公社の書記をしており、その人が保証人になってくれたので、ようやく遺体を引き取ることができたのだった。

 その後、我が家は困窮を極めた。家には7人子供がおり、上は17歳、下はわずか2~3歳。兄や姉は14~15歳になると、外で働き始めた。成長してから、母に「なぜあんな幼い子を外に出したの」と聞いたことがある。母は理屈を並べることもなく、ただ「自分の子供のことは分かる」とだけ言った。外に出せば生き延びられるかもしれない。だが家に残ったら、みな飢え死にするだろうから。

 父が逝った明くる年、私と弟が山で採る薬草が我が家の家計を支えることになった。あの当時、市は10日に一度開かれていた。10日かけて採った薬草で、10日食いつなぐ。その次の10日のために、また10日間薬草を採る。こんな日々が丸2年続いた。

 15歳で弟と働きに出た。陜西省の黄陵のとある炭鉱で石炭を掘った。今、むごたらしい炭鉱事故を目にするたび、当時の光景が頭をよぎる。今は社会の目もあるから、関係者も形式上はこの種の炭鉱事故に多少の注意と考慮を払う。だがあの当時、人の死さえ蟻の死と何ら変わりはなかった。

 働いたといっても、実際には一銭も稼げなかった。当初炭鉱で掘っていたとき、石炭を1km強のゆるい坂の上まで運ぶと1元もらえた。地元の有力者はロバで運んだが、我々は人力。しかも一番年下で、力も弱い。多くても一日17回分しか運べない。

 あの坑道から怒鳴り声やわめき声が聞こえただけで、私の心は乱れた。「弟がいじめられているのでは」とそれだけが気がかりで。当時、自分がいじめられても、なんともなかった。けれど弟がいじめられると、心が引き裂かれるほどつらかった。仕事が引けて、その日運んだ石炭の数が壁に記録される。この時が最も我々兄弟が興奮する時間。9ヶ月もすると、壁はその数字であふれかえった。しかし後に、それは単に我々が生き延びた証拠に過ぎなかったことに気づいた。

あるとき炭鉱が崩れて

あるとき炭鉱が崩れて、弟は大腿部の骨が剥き出しになるほどの重症を負った。そのとき、私は気が狂ったように古新聞を探しまくり、それを燃やして灰にしたものを弟の傷口に力一杯押し付けた。弟を坑道から背負い出したとき、病院など考えもしなかった。ただボスが弟を休養させてくれるよう願った。しかしボスは「お前らは、この9ヶ月食費がオーバーしている」と、一銭もあたえず我々を追い出した。「食費がはるかに稼ぎを超えたから」と、ついでに汚れてカチコチになった布団さえ差し押さえた。それは、あまりにも悲惨な光景だった。よく「共産党が政権を執る前の社会では、貧乏人は牛馬にも及ばない」と本に書かれているが、当時の我々もまさに牛馬以下だった。しかし、それは1980年のことだ。

 気が動転していた私は、農民の不要になった窯洞(ヤオトン、中国黄土地方にある洞窟式の住居)に弟を運んだ。しかし、夜そこの主人に見つかってしまった。主人夫婦に「お前たち、こそ泥か」と聞かれたが、何も答えなかった。もう自分は死人同然だったからだ。心優しい奥さんは、「もういいわ。かわいそうな子たちだねえ。ここに置いてあげましょう」といった。二人は30分もせず引き返して来て、私と弟に食べ物をくれた。それは彼らの食料であったが、今思い返すと、豚すら食べないような代物だった。

 その主人は大変痩せて小柄だった。ちょうど我々が食べていると、「お前、ここで働かないか」と聞いた。待ってましたとばかりに「うん」と答えた。「自分が食べられて、弟の世話ができるなら」。すると主人は、「こっちも貧しいから、お前の弟のメシまではまかなえねえな。でもお前が働いてくれたら、1日7角やろう」。

 当時は7角でビスケット2袋が買えた。主人に毎日弟へビスケット2袋と水を届けるよう頼み、私は仕事に出た。丸々1ヵ月、太陽と無縁の日々。朝、日の出前から働き、夜帰ってくると、もう外は真っ暗だった。毎晩洞窟に帰ると、何はさておき弟に触れた。彼の体温と呼吸が規則正しいかを確かめるために。

 1ヵ月もすると、弟の足は奇跡的に回復した。1銭の治療費もかけなかったのにだ。貧乏人の生命力のなんと強いことか。

 弟の傷が治ってから2人で相談し、弟を西安の2番目の兄のところに行かせることにした。私は残って、以前やったことのある橋梁工事の仕事で不払いになっていた43元の給料を催促することに決めた。

 あの農民に14元前借りして(彼もほかの人から借りたようだった)、弟をバスまで送った。車上の弟と見送る私。2人して大泣きした。当時の私は茫然自失であった。この弟に再会出来るかどうかも分からなかったから。わずか15歳のこの弟に。

 その後も、この農民のために引き続き働いた。20日で前借りした金を返し終わったが、1週間余計に働き、彼の窯洞を掘った。別れ際、彼は私を抱いて涙ながらに言った。「お前は、なんという良い子だろう。14元持って姿を消しても、わしらは恨みもしねえ。けれどお前は逃げなかったばかりか、こんなに余計に働いてくれたなんて!」

 あの当時、複雑な考えなどなかった。まずはあの43元を取り戻したかったし、そして兵士になりたかった。2番目の兄は軍で3年勤め上げた。そこでの食事はいいらしい。また「兵士になれば、この運命を変えられるかも知れない」と、漠然と考えていたのだ。

 平均2~3日に一度は、住んでいる窯洞から40km離れたところまで行って、不払いの給料を催促した。でも、いつも大いに立腹して帰って来るのだ。最終的にはあきらめて、一文無しで帰郷の途につく羽目になった。

(続く)

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