現代にも息づく孔子の思想

渋沢栄一著『論語と算盤』から悟った儒学の真諦

今日の中国人たちの心の中では、孔子と孟子の思想を時代遅れの骨董品だと思っているでしょう。しかし、日本の近代資本経済の根基、文化理念、価値観など、全て渋沢栄一氏(1840年-1931年、日本資本経済の父、商業界の父、企業界の父として称えられています)が生涯の師とした孔子の教えによって築き上げてきたのです。つまり、孔子の『論語』の知恵は日本の資本家に活用され、今日の日本社会の基盤を築き上げました。

渋沢氏は生涯儒教の経典を熟読し、そして、孔子の『論語』を師としました。商業界で40年の人生を過ごし、銀行の設立を始め、資本経済の形式を導入し、生涯『論語』の教えに従い、500余りの企業を設立し、今日の日本の経済形式と基盤を築き上げました。そして、その生涯の心得を『論語と算盤』という著作にまとめたのです。

読書感想文を書くことになったきっかけ

渋沢氏の『論語と算盤』を読んで、歴史上、唯一『論語』二十篇だけを頼りに出世した宋の時代の著名な宰相、趙普のことを思い出しました。なぜ『論語』は彼らを成功させることができたのでしょうか。その秘訣は一体何でしょうか。

残念なことに、趙普はどのように『論語』を読み取り、行動に移したのかを記録に残しませんでした。しかし、渋沢氏は、40年の時間の中で、自らの行動をもって、後世の科学者たちによって誤解された『論語』の真諦を説き、巨大な成功を収め、孔子の偉大さを実証しました。

ですので、有名な企業家の思考に沿って、祖先たちの知恵を悟り、現代人の価値観と教育における難題を解き明かすことを目的に、渋沢氏の『論語と算盤』を読んで、私自身の感想をここに書き留めたいと思います。

孔子の金銭と富貴に対する価値観が激しく曲解されている

『論語と算盤』は渋沢氏が晩年の時に後世のために残したスピーチ原稿であると言われており、近代ビジネスの基本的な経営理論とされ、渋沢氏の上を行く者はいないと尊敬されてきました。この本の中で、渋沢氏は道徳と利益の関係を説きながら、人々に曲解されてきた孔子の本意を説明しています。まずは第4章の孔子の貧富観念についてお話ししたいと思います。

渋沢氏によると、孔子が歴代の儒学者に誤解された最も大きな部分が金銭と富貴に対する価値観です。これらの儒学者は、何の根拠もなく、「富貴ある人に仁義の心はない。仁者や君子になりたければ、富貴を捨てることだ」と勝手に思い込み、そして、この極端な解釈を孔子の意思であるとしてきました。

渋沢氏によると、『論語』を一部始終読み通しても、このような意味を持つ語句はどこにもなく、却って、経営に関する間接的な論述がいくつかありました。

学者だけでなく、伝統的な儒学教育を受けたことのない現代人でも、渋沢氏の認識を聞いて驚きます。これは本当のことでしょうか。渋沢氏は『論語』の「述而篇」の「子曰く、富に而て求む可き也、鞭を執る之士と雖も、吾之を爲さむ、如し求む可から不る也、吾が好む所に從はむ」を取り上げています。この部分はつまり、富貴は求めて得られるもので、例え馬車の御者になっても構わない。しかし、求めるべきではないものなら、自分の好きな職業に就くと良いという意味です。孔子のこの言葉自身は富貴を軽視する意味は全くなかったのですが、しかし、後に、儒学の研究者たちによって、孔子が富貴を軽蔑していると曲解されました。

渋沢氏はまた、『論語』の「裡仁篇」の中の「富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、処らざるなり。貧と賤とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり」という部分を取り上げました。渋沢氏によると、孔子は富貴を軽視しておらず、正しい道を歩んで経営することを説いているのです。後半部分は、もし、正しい方法で富を得ることができなければ、貧しい生活に身を任せるのも良いという意味です。

私個人の理解では、「其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり」という部分は、正しい道でなければ、富は得られないということであり、「去らざるなり」はまさに貧困から抜け出せないことを指していると思います。そうでなければ、孔子は弟子たちに官吏になることを勧めないでしょう。国政に携わることはまさに国家を管理し、国民の生活をうまく経営することではないでしょうか。国民が貧しい生活に苦しんでいるのなら、その官吏は良い官吏と言えますか?つまり、仁義を重んじ、ヒチしなかったを持つべきだということです。渋沢氏はまさに原文(書き下し文)を読んで、この含意に気づいたのでしょう。

孔子の教育理念を忘れてはならない

中国の儒学の経典は山ほどありますが、しかし、人々は孔子が師となった当初の意義を忘れたようです。学んで実際に役立てることこそ、儒学の真義なのです。孔子が教育を始めた当初の本意は、春秋戦国時代によって人々の下がった道徳基準を回復させ、戦争を経験してきた国民を苦難から抜け出させるために、君子を育て、国を治める人材を育成し、国家を管理し、経営に携わり、国民に良き生活を送らせることです。

これらの思想は全て『論語』に書かれており、また、『論語』は経典の首、つまり、後世の四書の首とされてきました

しかし、後の学者たちは孔子の本意を忘れ、各種の経典を研究し、暗記することを主にしました。そのため、古代の各種の経典を熟読することは人を成すためであり、仁義のある君子になるためであることが段々が忘れ去られていったのです。孔子は弟子たちに、自分の学問を自慢するのはなく、常に自分を正しく律することを説いているのです。後世の人々の盲目な崇拝と各学派の定義により、孔子の真義が激しく曲解されてしまいました。。

本を読むときは、原文を読むことをお勧めします。様々な注釈は参考までなので、必ずしもその通りの意味とは限りません。どの学派も、例えどれほど有名でも、人気があっても、盲目に崇拝し、その人たちだけの解釈を信じてはいけません。孔子は「君子不器」(くんしふき)と説きました。つまり、固定された観念を持たず、自分も、相手も制限して認識しないことです。

渋沢氏のような学習態度を持てば、きっとより多くのことを悟ることができ、先人たちの知恵を活用できるでしょう。