【党文化の解体】第3章(22)

4.教科書を利用し、党文化を注入する
1)政治的な授業:欺瞞に満ちた政治色

 (1)課程は多く、授業時間は長く、範囲は広く、要求は厳しい

 古の学童が受ける初歩的な教育は、水を撒き掃除をすることや客を送迎することなどの生活マナーをはじめ、礼節、音楽、弓馬、書道、算数といった常識を学習し、それに用いる教材自体の中には人としてどうあるべきかの道理が含まれていた。

 近代以来の西洋では、児童は基礎的な授業以外に、さらに社会科の授業があり、民主社会における市民としての権利と義務を学習する。しかし中共は教育を階級闘争の道具としてしまい、教育の目的は健全な人格を有する個々人や理性的で責任感のある社会公民を養育するためではなく、「党の話を聞き、党とともに歩む」という後継者を作り上げるためのものとなっている。

 教育課程の目的が違うと、教育課程の手段と内容も異なってくる。小学校から大学まで(これは一般論的な言い方で、実際は党による洗脳は幼稚園から博士課程まで徹底している)、中国の学生は一貫して政治的な授業を受けざるを得なく、授業時間は長く、課程は多く、要求は厳しいというのは、古今でも稀に見るものである。

 それぞれの段階において、この課程は異なった名称と重点を有している。小学校時には「思想と品徳」と呼ばれ、中学校時には「思想と政治」「社会発展史」「国情教育」と呼ばれ、高校では「青少年修養」「哲学常識」「経済常識」「形勢任務」と呼ばれ、大学では「マルクス主義哲学」「革命史」「社会主義建設」「法律常識」などと呼ばれている。

 これらの科目は、たとえ名称は違っても、趣旨はただひとつである。即ち、「共産党しか中国を救うことができない。社会主義しか中国を発展させられない」ということを証明するものだ。これらの課程が、学生の受ける総授業時間に占める割合は五分の一近くであると推察される。

 

中共が用意した政治科目の階段を一歩一歩上る子供。「しっかり勉強すれば、お役人になり金持ちになれるぞ」(イラスト=大紀元)

指摘しなくてはならないのは、これらの科目は取っても取らなくてもよい選択科目ではなく、否が応でも取らなくてはならない必修科目で、核心の科目であり、各学年の進級試験の中に必ず含まれている科目だということである。一部の進級試験においては、政治科目で点数の及ばない者は一概に合格させないこととなっている。

 (2)党文化を「徳育」「常識」「原理」「基礎」にしたてあげる

 党文化は人をかつぎあげるものでしかないが、人に抵抗なく受け入れさせるためには、それが自然なものであり、古から既にあるものであって、天が下したものと同然であり、「之を放てば四海で皆が従い、これを量れば古今で通らぬことはなし」としなくてはならない。

 そこで、反人間的な階級仇敵の教育が「徳育」と称され、反常識が「常識」と称され、理の歪曲が「原理」と称され、源のない水、根のない木が「基礎」と称され、まるで全世界がこれを学習しているかのようである。

 抵抗力の全くない青少年がこれらの虚偽で捻じ曲がった世界観と人生観を完全に受け入れてしまうと、そこから狭量で偏執したものに変貌し、正常人が皆このように物事を考えていると思い込み、共産中国こそが世界の模範であり、これと違う観点は「反動」「浮いている滓」「我らを滅しようとする頑固な心」などと貶して退けようとする。

 ある中高生は社会発展歴史を学習し終えて先生に質問した。「社会主義が必ずや資本主義に取って替わるのであるならば、資本家が歴史的な潮流に順応しないのは、彼らの頭が愚かなのでしょうか。それともとぼけているのでしょうか」

 大学の哲学史ではマルクスが点数の対象となり、マルクス以前の西洋哲学は古典哲学と称され、機械唯物主義であるかあるいは唯心主義であるとされ、何と言ってもなお真理が発見できていないと諭している。マルクス以降のものは現代哲学と称され、その全てが死滅しつつある資本主義の腐敗堕落した息遣いであるとしている。

 中国の伝統思想では、もし一点でも合理的な成分があるとすれば、それは弁証法もしくは唯物主義の「萌芽」であるとされ、それは祖先たちが「天才的な推測」によって到達したものであるとされる。

 各種の「哲学史参考資料」の類の書籍では、それらの結論により歴史的資料が骨抜きにされ、豊富な歴史内容を二つの「路線」による闘争の歴史として剪定されている。この種の「哲学」を学んだら、人は「天がマルクス・レーニンを生まなかったら、永遠に長き夜の如きになっていた」かのように感じてしまい、どうにも理解に苦しむのは、マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛が苦労の末に真理を発見したのであれば、なぜその他のものを全部焚いてしまわないのかということだ。

 (3)最も中共の特色のある教育内容-時事政治

 中共は原則が少しもない無頼漢の党であり、その立場は不断に変化している。たとえ情勢へ追随するのが巧みな人であっても、新しく発生した事態に対してどのような態度をとればよいかに戸惑うほどである。

 「時事政治」の授業科目がこの難題を解決している。大学入試とその他の主要な試験の中には、総じて一定の割合(約10%)で、時事的な政治内容が出題されており、学生たちは中共当局が教唆する内容通りに回答を迫られている。2000年の大学入試での政治問題の中では、取りも直さず法輪功を誹謗中傷する選択問題が出題された。

 (4)恨みと屁理屈を注入して、憤激と政治的な冷淡さを培養する

 人権はつまるところ、民衆の基本的な権利である。しかし注入が長年に渡ったために、人権という言葉は大部分の中国人にとってはネガティブな表現となり、少なくとも疑わしい言葉となっている。この言葉を聴くと、まず人々が抱く印象は、「話している人に必ずしも政治的な目的があるとは限らないが、注意するにこしたことはない」といった具合である。

 中共は青少年に識別能力がないのを知っていて、このため怨恨を注入する教育は一貫して幼少の頃より行われている。1999年以後、法輪功への怨恨を注入する内容が正々堂々と大学、高校、中学、小学校の教材に組み込まれた。

 人民教育出版社2003年版の高校三年生「政治思想」の教材の第四課では、あからさまに法輪功を誹謗中傷する「教育内容」が載せられている。人民教育出版社の2003年11月第三刷の小学生の「思想と品徳」第十冊の十二課では、劉思影の口を借りて、もっぱら「天安門焼身自殺事件」をでっち上げて小学生に怨恨を注入しただけでなく、法輪功を誹謗中傷することが当然な思想行為であるかのように小学生全てに摺りこんだ。

 きわめて多くの家長が、中共の迫害政策は不当だと思っているが、自分の子供の純真さを守るため、あえて子供とこの話題を取り上げようとはしない。はからずも、家長のこの好意は子供の保護には何らなってはおらず、かえって中共の宣伝に子供を投げ入れる結果となっている。

 

中央電視台が放送した「天安門焼身自殺事件」の映像(大紀元)

前述した、直接にある結論を注入する問題以外に、政治に関する試験ではさらにもう一種類の出題方法があり、それは自らの正常な思考回路を捻じ曲げてはじめて、正解をひねり出すことができるような問題である。

 ある人は、「弁証法とは手品である」と言うが、それは奇怪なことではない。長期的な訓練の後、学生たちは自らの正常な思考回路を按排することを棚上げにして、出題者の変異した論理方式に入っていく。

 このようにして培養された学生は、邪悪な論理方式を踏襲することを完全に習得し、「左の棍棒」「憤激の人」になるか、あるいは徹底して推理する努力を放棄し、ある種、人格的に分裂した状態に満足するものとなる。これらの学生の回答は微塵も曖昧なところはないが、そこから「哲学」「人生観」「政治」等に対して、深刻な性悪さと冷淡さを生じ、最終的には私利にだけ関心を寄せ公共の意識が少しもない人となってしまうのである。

 (5)政治的な授業は決して緩めない

 近年来、一部の科目の教材に対する中共教育部の編集検閲はだんだんと緩くなってきた。しかし政治的な科目に関しては、決して緩めていない。「六四」以降の高校の公共政治科目の講義内容が大幅に改訂されるたびに、必ず中共中央政治局常務委員会の討論と批准を経ることとなっているようである。

 2004年の春に発布された「高校思想政治課程の基準」には、次のような内容が盛り込まれている。「高校の政治思想の授業では、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、_deng_小平理論及び三個代表(「三つの代表」)などの重要思想の基本的観点の教育に入っていく…そうして学生たちを導き…弁証唯物主義の基本的観点と方法を理解させ、現代社会に参加する生活能力を確実に向上させ、中国の特色ある社会主義の共同理想を逐次樹立させ、正確な世界観、人生観、価値観の初歩的形成を行い、生涯に渡って発展する政治思想の素質的な基礎を固めるものとする」

 こうして見ると、中共は本当に暗黒に向かって一直線に進みたいようである。

(続く)