古人の知恵から学ぶ
南宋王朝の繁栄と助け合いの精神
繁栄を極めた中国歴代王朝。その中でも、南宋の庶民の暮らしの中に文化の真髄が反映されていました。当時、周辺諸国の憧れの的だった南宋には使節団がひっきりなしに訪れ、中国で一生を終えたいと願う国王も多くいたと伝えられています。しかし、彼らが見たのはあくまでも表面的な部分です。目に見えない本質の部分こそが、「中華文明の神髄」であり、数千年間の繁栄を維持し続けた根本となるものです。
中国の皇帝は大きな宮殿に住み、強権政治を行ってきたと現代人は思いがちですが、実際はどうだったのでしょうか。宋王朝の首都、開封(かいほう)の宮殿は、そんなに大きくはありません。986年、宋の太宗は宮殿を拡張しようと思い、劉延瀚(りゅう・えんかん)という武将に民家の取り壊しを命じました。この武将は中央軍の指揮官であり、皇帝の腹心の部下でした。しかし彼は、百姓が取り壊しに反対しているという理由で、皇帝の要請を断りました。「宋史」によると、皇帝はその後、計画を断念したと伝えられています。昔の皇帝といえども、大臣や民衆の考えを尊重しなければならず、好き勝手に振る舞えたわけではなかったのです。
民意を尊重した宋王朝では、平民にも一定の権利が与えられていました。最もみじめな境遇にいる者でも、生活はそんなに苦しくはなかったのです。
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