≪医山夜話≫ (65)

養生の術

世の中に病気の原因は数多くありますが、治療法は限られたものしかありません。現代人の病は様々であり、生理的、心理的、あるいは環境から引き起こされたものがあり、本当に多種多様といえます。病気の原因を特定できず、脈を取り直し、鍼の刺し方を変えても、患者の症状は一向に好転しない場合があります。

 このような患者に接した医者は、適切な処方が見つからないことに苛立ちます。自分が持っているすべての時間と学識を以ってしても、命の本質を探る試みが失敗で終わることに、医者は無力感を覚えます。

 宋の詩人・陸遊は「遇事始知闻道晚,抱痾方悔养生疏」(事が起って初めて道を知るのが遅いと分かり、病気に罹って初めて早く養生していないことを悔やむ)と吟じました。聞くところによると、中国道家の養生法だけでも3千6百門あり、一門に一万もの方法があるといいます。古人の養生の知識はこんなに博大で豊かであるのに対し、現代人の養生法は浅く、乱れています。医者として、どんな人にも適応する「根本的な妙法」を見つけるべきではないでしょうか?

 現代人は「養生」という言葉を耳にすると、直ちに栄養食品や栄養剤、あるいは登山やスキーなどのスポーツを思い出します。しかし、栄養食品を買うお金がなく、スキー場に行く時間のない人たちはどうすればよいでしょうか? また、栄養食品の摂り方を間違えば効果がないだけでなく、逆効果になることもあります。

 人生は80年に過ぎず、少年時代と老後の時間は人生の3分の1くらいを占めます。そして、仕事に追われる時間と睡眠時間がまた残りの半分以上を占めます。そして病気に苦しむ時間、天災・人災・トラブルに時間を費やせば、平穏で心地良い日はどれだけ残っているのでしょうか。

 昔の人は、人の一生が短いことを知っていました。彼らは自然の摂理に順応し、人としての道に従い、万物を大切にして生活していました。これは養生の最も基本的な道理です。

 治療とは「頭が痛いなら頭を診て、足が痛いなら足を診る」というような、一時的な措置を取ることではありません。まして今の多くの病例は、心理的な原因が作用しています。医者として治療の本質、すなわち「善の心を重んじる」ことを患者に教えてあげなければ、医術の発展は永遠に病気の進展速度に追いつかず、医者は技量の限界を思い知らされるしかありません。

 道徳をしっかり守る人こそ本当に養生の術が分かる人だと、古人は我々に伝えています。

(翻訳編集・陳櫻華)※≪医山夜話≫ (65)より