最後の審判」の壁画は、雲の上に立っているイエス・キリストを中心に描かれています。キリストは若く、容姿端麗で力強く右の手を上げ、大公無私で優れた正義感を以って判決を下します。善人を天国に導き福報が得られるようにします。左の掌で、邪悪を阻止し、罪人を地獄に沈めるように下へ押さえています。悪人には悪の報いがあります。キリストの掲げた右手は、この世のすべてのものを一瞬にして最終的な判決を下し、すべてに決着をつけるかのようです。 この荘厳な建造物には、無限の慈悲と威厳が顕わされおり、人々は神の偉大さと威厳、善と悪が報われることを理解します。

聖母はイエス・キリストの傍らで、慈悲に人間を見下ろしています。イエス・キリストを中心に十二使徒や聖人、殉教者が囲んでいます。イエスの向かって右下には、バルトロマイがナイフと殉教の生皮を持っています。その皮の顔は、ミケランジェロの自画像です。聖バルトロマイは生きたまま皮を剥がされても、苦難に耐え自分の信仰を貫き通し、ついに天國に戻りました。剥がされた生皮には、ミケランジェロ自身が描き込まれており、ミケランジェロの真理を探究する決意、強い期待と救済を待つ心を表しています。

人間は神によって自分に似せて作られたものです。人間の善悪の行いは神の目の暗闇の中にあります。神は最後の審判の日に正義に従ってすべてのものを裁かれるからです。 堕落した人間が創造主のもとに戻るためには、罪から解放され、心を清めるしかありません。 最後の審判では、正しい人、心の正しい人は永遠の命に入り、主なる神から喜びと満ち足りた栄光を受けますが、神を知らない人、不敬虔な人、邪悪な人は、不幸の中で罪を償うか、永遠の死の罰を受けることになります。

絵の中で、ラッパを吹く天使は、すべての生命に対し裁きを求めます。ミケランジェロは、審判に直面する者の感情的な反応や姿勢を描いています。有罪とされた死刑囚の魂は、恐怖に脅え地獄に落とされる瞬間を前にして、絶望と苦痛に満ちています。

「最後の審判」は、西洋の伝統的な古典絵画で非常に一般的なテーマです。初期の教会の壁画に、この主題が描かれていました。 ミケランジェロの作品「最後の審判」は力と美しさに満ちていますが、裸の人物は「道徳的退廃」と、しばしば批判されています。

ミケランジェロの友人ジョルジョ・ヴァザーリの記録によると、ミケランジェロが「最後の審判」を描いたとき、教皇パウルス3世と儀典長チェゼーナは、まだ未完成の作品を訪問しています。教皇がチェゼーナに意見を求めたとき、儀典長チェゼーナが「公衆浴場や宿屋にお似合いだ」とけなします。 ミケランジェロは、そんな場所がお似合いだと言われ激怒し、儀典長チェゼーナを地獄の番人ミノスとして描き、身体は蛇でぐるぐる巻きになりました。 チェゼーナは教皇とミケランジェロにしきりに哀願しますが、受け流されてしまいます。 それから直に、ミケランジェロは高い足場から落ちて、片足を負傷しました。

ミケランジェロの死後、教皇は裸体の上に布などを描いて隠すことを命じました。1980年から1992年にかけてシスティーナ礼拝堂の壁画、天井画の修復作業が行われた時、描かれた布などを除いて、1993年にバチカン美術館の監督の下で、この壁画は修復されました。

神の伝承の文化は、善悪の裁定の中で人々に訓戒を与えています。善と悪の選択は、人間の命の最後の行方を決めます。 美しい芸術作品を観賞すれば、インスピレーションを受けられます。ミケランジェロの「最後の審判」は、今日まで長きにわたって広く伝わっています。その技術の高さだけでなく、示唆に富む意味合いからも、あらゆる世代の人々に賞賛されています。

世界の歴史の中で多くの預言が「最後の審判」について、善と悪が明確化され、天と地を更新することに言及しています。 西洋の世界の人々は「メシア」の降臨を待ち、東洋の世界の人々は「未来の弥勒菩薩(転輪聖王)」の降臨を記しています。神仏降臨の時、善事を勧め、悪事を懲らしめます。あらゆる人類の文化と宗教を超越した大審判になります。 自らを把握し、悪い行いを改め善い行いをし、良い未来を築きましょう。

(翻訳・溝部 東)