【芸術秘話】ミケランジェロが自ら破壊したもう一つのピエタ(上)

16世紀半ば、齢75前後の頃のミケランジェロは、絶え間なく響く鑿(のみ)の音とともに、一生懸命、巨大な大理石にイエス・キリストの姿を彫っていました。当時、彼はキリストが十字架から降ろされた時の光景を再現していたのです。

この「キリスト降架」(Bandini Pietà)と呼ばれる彫刻、通称「フィレンツェのピエタ」から、亡くなったキリストを支えようとするニコデモ、聖母マリアとマグダラのマリアの気持ちが感じられます。悲哀に満ちたニコデモは後ろに立ち、キリストを支えようとしながら、キリストと我が子に別れを告げている聖母マリアを見つめています。

キリストは聖母マリアの膝に半分もたれかかり、顔は母親のほうを向いています(マリアが引き寄せたという見方もあります)。耳元で優しく我が子に別れを告げている聖母マリアの気持ちを想像すると、思わず涙が溢れます。

この彫刻は、ミケランジェロの最後の時期の彫刻の一つで、遺作ともいえるでしょう。本当は自分の埋葬品として彫っていたと言われています。そして、なんと、ニコデモのモデルはミケランジェロ自身だったのです!

もしかすると、ミケランジェロはこの形で私たちに自分のことを覚えていてほしかったのかもしれません。ミケランジェロは自身の信仰を、優しく敬虔な眼差しでキリストを見つめているニコデモに託していたのでしょう。あるいは、自分が間もなくキリストの後を追うことを悟っていたのかもしれません。

ミケランジェロのこの「フィレンツェのピエタ」は未完成のままです。そしてこの彫刻はミケランジェロのお墓に入りませんでした。この未完成の彫刻はキリストの左腕が壊され、左足がない事から、長い間、ミケランジェロが怒りと失望により、ハンマーでこの彫刻をたたき壊したと言われてきましたーー。しかし、修復を通じて、さらに多くのことが判明したのです。

ミケランジェロの3つの「ピエタ」

ミケランジェロは生涯で3つの「ピエタ」の彫刻を創作しました。最も著名なのが、若いころの「サン・ピエトロのピエタ」です。この彫刻について、ミケランジェロが聖母マリアの姿をあまりにも若く彫ったという声が上がっていましたが、これに対して、ミケランジェロは「罪が人に年を取らせているのだ」と答えたのです。

「サン・ピエトロのピエタ」(1498-1500、ミケランジェロ作)Juan M Romero – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46153417による

 

晩年になると、ミケランジェロは「フィレンツェのピエタ」と「ロンダニーニのピエタ」を手掛け始めました。(なお、両者の間に「パレストリーナのピエタ」もありますが、ミケランジェロの作品かどうかが疑問視されているため、ミケランジェロが創作した「ピエタ」は3つと言われています)

注目すべきは、この「フィレンツェのピエタ」はミケランジェロ1人の作品ではないということです。ミケランジェロは未完成のこの彫刻をAntonio da Castelduranteに贈り、その後、Antonioは彫刻家のティベリオ・カルカーニに修復を依頼しました。

しかし、カルカーニも修復を終える前に亡くなったのです。ジョルジョ・ヴァザーリの著述によると、この未完成の彫刻にとってカルカーニの死は悪いことではなかったかもしれないといいます。カルカーニはマグダラのマリアの部分を彫刻しましたが、サイズが小さすぎ、また、キリストの折れた腕の修復もうまくいかず、その上、作品に大理石の石材を付け出したというのです。

Antonioは彫刻をフランチェスコ・バンディニ・ピッコローミニ(1505–1588)に売却しました。その後も何度が持ち主が変わり、1664年にメディチ家のコジモ3世がこれを買い取り、現在は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドゥオーモ付属美術館に保存されています。

(つづく)

 

(翻訳編集 天野秀)