【芸術秘話】ルーヴル美術館のピラミッド騒動(下)

では、なぜピラミッドなのでしょうか?その理由は場所を取らず、そして、この広場に新たな要素を加えることで、雰囲気も一新されるということでした。ちなみに、このピラミッドの高さは20.6メートル、底辺は35メートルと、エジプトのギザの大ピラミッドと同じ比率になっています。当時のフランソワ・ミッテラン大統領はこの計画を知り、建設に同意しました。

しかし、1984年1月23日、トラブルが発生しました。遺跡理事会は譲歩し、ピラミッドのデザインを受け入れたものの、当日の「フランス・ソワール」紙が「新ルーヴル美術館のスキャンダル」という記事を掲載したため、フランス社会が大きな衝撃を受け、ルーヴル美術館のピラミッドは皆の知るところとなりました。

2月になると、七つの遺産保護協会が文化部長に、「デザインだけではない、ガラスと金属でできたピラミッドなど、周りの環境にとても合わない!」とイオ・ミン・ペイ氏のデザインに対する不満を投げつけました。そして、パリ1区の区長も「ルーヴル美術館のイメージ変更は許されない!パリ市民の意見を受け入れるべきだ!」と数多くの署名を集めた請願書を提出しました。

一方、この工程の秘書だったエミール・ビアシーニ氏は全く心配していませんでした。彼は時々、レストランなどで嫌がらせに遭いましたが、調査を通じて、人々はピラミッドには反対していないことがわかっていました。

ルーヴル美術館の館員たちもプレゼンテーションの翌日には態度を和らげ、ピラミッド案を支持することを表明しました。ビアシーニ氏はチームを率いて、フランス内のすべての美術館館長や建築家など、100名以上の関係者と話し合い、3日間にわたる会議で、皆の同意を得たのです。

しかし新聞上の言論の争いはエスカレートし、「なぜ外国人の指令を受けなければならないのか?!」「ピラミッドなど、高貴な顔に大きなほくろができたようなものだ!」などといった読者の批判が止まりませんでした。そんな中で、ミッテラン氏がピラミッドを介して秘密結社を結成する噂や、ピラミッドがサタン(ガラスの枚数がサタンと関連があるともいわれる「獣の数字」と同じ666枚だとする説)と何らかの関わりを持っているという連想なども広がっていきました。

他の記者たちも休まず追随し、「フィガロ」紙の記者はピラミッドを「くだらない小細工だ」と揶揄し、「世界日報」紙の都市計画と建築のコラムの著名な作家であるアンドレ・フェルミジエ氏も、26日、「死者の家」(ピラミッドはファラオの墓)というタイトルの記事を発表し、ペイ氏の計画に対する怒りと批判を示しました。

1985年4月28日になると、ミッテラン氏はTF1テレビで「我々は好き勝手にあの場所にピラミッドを置いているのではない。ルーヴル美術館に、いかなる新要素も加えてはならないという言い方はナンセンスだ!」と厳粛な声明を発表しました。その後、パリ市長のジャック・シラク氏の要求により、ピラミッド完成後のルーヴル美術館の模型が公開され、最後の反対者たちの声もおとなしくなりました。大々的に批判していた記者たちも含め、誰もが考えを改めたのです。

そして1988年3月4日、ミッテラン氏の就任7周年の何週間か前、ミッテラン氏は自らルーヴル美術館の開幕式を主催しました。これは20億フラン以上をかけた大がかりな工程であり、時を超えた偉大な事業でした。この日以降、ピラミッドはルーヴル美術館のシンボルとなりました。

 

ルーヴル美術館入り口。(Yurius / PIXTA)

 

今日のルーヴル美術館は世界中で知られている有名な建物です。入り口にはいつも長蛇の列ができ、この輝くピラミッドをカメラに収めたい旅行者は数え切れません。開幕式から18年後、イオ・ミン・ペイ氏が再びルーヴル美術館に戻った時、当時の状況を振り返ってこのように話しました。

「当時、多くの人はわかっていなかった。ピラミッド自身は重要なポイントではないのだ。いかにしてバラバラだったルーヴル美術館をひとつにまとめるのかが肝心なポイントだったのだ。昔のルーヴル美術館は七つの部門に分かれ、部門間の争いも激しかったからな。私が手がけたこの工程は、世界で最も美しい美術館を完成させた。このことをとても誇りに思っている!」

(完)

(翻訳編集・天野秀)

史多華