【古典の味わい】貞観政要 9

貞観19年のこと。太宗は自ら軍を率いて、高句麗へ遠征した。

定州(河北省)に宿営したとき、後から長安を出発した軍が到着すれば、太宗は必ず北門の楼上にお出ましになり、遠路はるばる歩いてきた兵士たちを迎えて、その労をねぎらった。

そのなかに一人、病気のため歩けなくなっている兵士がいた。太宗はその兵士を呼んで、床几の前まで来させると、天子自らお声をかけて「痛むところはどこか」と兵士にたずねた。

驚いた兵士が、心臓が飛び出るほど恐縮しながら答えると、太宗はすぐに定州の医者を呼ぶよう側近に申しつけた。駆けつけてきた医者に、太宗は「この者を治療せよ」と命じた。

このこと以来、諸将から兵卒まで、太宗のもとへ参じて従軍したいと願わないものはなかった。

貞観19年、というと西暦645年に当たります。ご存じの通り、日本では大化の改新の始まりを告げる「乙巳の変」。あの蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件が起きた年です。

貞観政要』の原文では、遠征先は「高麗」となっていますが、朝鮮半島に高麗王朝が建つのは10世紀以後ですので、ここでは高句麗(こうくり)のことですね。高句麗は、中国東北部から北朝鮮までの広大な地域に勢力をもち、唐の前王朝であるに対して、頑強な抵抗を見せた国です。

貞観19年のころは高句麗も末期で、衰退期といってもよいのですが、唐の太宗が大遠征軍を送るくらいですから、まだ侮れない力は残っていたのでしょう。実際、高句麗はもうしばらく持ちこたえた後、668年に唐と新羅に挟撃されて滅びます。

さて、ここに見られる太宗の、病んだ兵士へのいたわりは、なんと細やかで慈悲深いものであることでしょうか。

太宗は、李世民といった青年時代に隋朝が倒れ、その後の混乱期にあって、父・李淵とともに将兵を率いて各地で戦ってきました。実戦を豊富に経験してきた太宗は、戦場で兵士が嘗める苦労を身に染みて知っていたのです。

ただ、太宗の非凡なところは、そうした兵士の苦労を我が身の痛みとして共感するとともに、人民の幸福を具現することが皇帝たる自身に課せられた天命であると、一点の曇りもない鏡のような心で認識していたということです。

そうであるからこそ、諸将から兵卒に至るまでの全軍が司令官である太宗に一層の忠誠と奮戦を誓い、戦いを前にして大いに士気を高めるのです。

(聡)