【古典の味わい】貞観政要 11

貞観の初年の頃、太宗が侍臣に向かってこう言われた。

「君主としての道は、まず人民が安心して生きられるようにすることだ。もしも、重税を課すなどして人民を苦しめ、君主が贅沢三昧をするならば、それは自分の足の肉を喰って自分の腹に入れるようなものだ。満腹になったときには、その身が死んでしまう」

「天下を安泰に治めるには、まず君主が自身を正すことだ。上に立つ君主が正しくありながら、下々が乱れた例はない。うまい料理ばかりを食べ、音曲や女色に耽溺していては、莫大な費用がかかり政務の妨げとなるうえ、人民の生活も乱してしまう」

「君主が一つでも道理に外れた詔(みことのり)を発すれば、万民は乱れ、君主を恨むようになり、反乱をおこす者まで出てくるだろう。朕(ちん)は、常にそれを思い、決して自己の欲望のままに行動を乱すことはしない」

諌議大夫の魏徴(ぎちょう)が、これに応えてこう述べた。
「陛下が、ただいま仰せになられたことは、まさに古人の義にかなっております」
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「国を安らかに治め、平和を長久のものとするには、まず皇帝である自身が誰よりも慎み、ふるまいを正さねばならない」。そうした帝王学の根本を、自ら宣言した太宗の脳裏にあったものは、何でしょうか。

が滅び、王朝が開かれたのが618年でした。貞観(627~649)という年号の時代は、中原が隋末唐初の混乱からようやく抜け出し、いよいよ太宗が内政を充実させるまさに重要な時期にあたります。

そんな太宗の脳裏にあったのは、前王朝である隋(581~618)が一時は中国全土を平定しながらわずか2代で滅ぶという、悲惨な結末でした。

「隋は、なぜかくも短命に終わってしまったか」。その答えは、太宗にははっきりしています。

隋を開いた文帝は英明な君主でした。しかし、その後を継いだ息子の煬帝(ようだい)は、今日でも中国史上第一の暴君とされている通り、国力を一気に疲弊させ、国家を破滅させたのです。

自身は酒色におぼれ豪奢な日々を送りながら、大量の兵士を徴集して高句麗遠征をはじめ無謀な外征に駆り立てました。

さらに、女性を含む100万の民衆を動員して、河北から江南までを貫く大運河を開削させました。運河の完成は610年。総延長2500㎞を超える空前絶後の土木工事です。

歴史的に俯瞰すれば、大運河は現代でも水運に使われている有用な遺産です。煬帝以前からも、運河をつくる工事は部分的に行われていました。しかし、それらを連結し、完成させるに当たって、煬帝はあまりに過酷な手段をとりました。

当然ながら、煬帝は民衆の巨大な恨みを買い、最期は家臣に殺害されます。

煬帝の哀れな末路こそが、太宗にとっての明確な反面教師でした。太宗が述べた上記の自戒の全ては、煬帝の失政と不徳に合致するものです。

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。