中国伝統文化と日本(五) 共鳴する武人の心

旅順港閉塞作戦は、日露戦争(1904~1905)の初期において三次にわたって敢行された。

旅順港の入り口273mの細い水路に複数の古船を沈めて、ロシアの太平洋艦隊が拠点とする旅順港をまるごと封鎖する、という大胆きわまる作戦である。

その勇猛果敢さは世界の戦史に特筆されるべきものだが、作戦を実行した日本側としては十分な成果を得られなかった。

ロシア側も、むろんそれを警戒していた。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では「探海灯」と記されたサーチライトで閉塞船団を煌々と照らしつけ、沿岸砲台から豪雨のように砲弾を浴びせた。

第2次閉塞作戦を描いたイラスト。ロシア軍はサーチライトを効果的に利用し日本軍を撃退した

その第二回閉塞作戦で、閉塞船の一隻である福井丸に乗った指揮官が広瀬(廣瀨)武夫少佐(最終階級は中佐)である。

いよいよ出撃に臨んで、漢詩の才をもつ武人・広瀬少佐は「七生報国、一死心堅。再期成功、含笑上船。(七たび生まるとも国に報ぜん。一死、心に堅し。再び成功を期し、笑みを含みて上船す)」という一詩を詠んだ。

これが広瀬の遺作となる。旅順港の海上で、頭部に砲弾を受けて戦死するのである。

Portrait of Hirose Takeo (広瀬武夫, 1868 – 1904)

広瀬がかつて、南宋の政治家で軍人の文天祥(ぶんてんしょう 1236~1282)の漢詩『正気歌』にならい、自身も同題の「正気歌」を詠んだことは、あまりにも有名である。

文天祥のいう「正気」とは、「天地万物の根本となる気(エネルギー)」を指す。

一方、広瀬のそれは、同詩の第15句「嗚呼正気畢竟在誠字(ああ、正気とは、ひっきょう「誠」の一字にあるのだなあ)」に見られるように、広瀬がそのように理解したからであろうが、だいぶ日本人好みに変えられているようだ。

南宋の遺臣としてモンゴル)に囚われた文天祥は、その才を惜しんで生かそうとするクビライに臣従することを拒み続け、望んで処刑された硬骨の忠臣である。

その文天祥が獄中にあるとき、自身の心意気を存分に詠じたのが『正気歌』であった。

文天祥・『晩笑堂竹荘畫傳』より

日本の藤田東湖吉田松陰、広瀬武夫らが、先人に敬意をもってこれを愛謡し、自身も「本歌取り」するように同じ題で詠じた。なかなか痛快な歴史の一幕と言ってよい。

鳥飼聡
二松学舎大院博士課程修了(文学修士)。高校教師などを経て、エポックタイムズ入社。中国の文化、歴史、社会関係の記事を中心に執筆・編集しています。