中国伝統文化と日本(一)

東アジアの海の上という、おもしろい位置に日本がある。

「おもしろい」と言ったのは、大国である中国の隣国の一つでありながら、海を隔てているせいかその影響の受け方が地続きの国とはまた違った、独特の道をたどってきたからだ。

中国文化の受容という面においても、意識的にそうしたかどうかは不明だが、日本は興味深い方法をとった。

その方法とは、言わば「日本家屋の縁側方式」である。つまり、外から運ばれてきた畑の収穫物などを、一度縁側に置き、そこで取捨選択あるいは多少加工してから室内に入れるという二段階方式をとったのだ。

取捨選択といっても厳格に選別したわけではないので、多くのものは日本に輸入されたが入らなかったものもある。例えば、中国や朝鮮では国家を挙げて試験地獄に飛び込んだような官僚登用試験の科挙は、ついに日本には入らなかった。女性の足をしばりあげて変形させる纏足も、日本人がまねさせられることもなかった。

また、はじめは「宮」という刑罰であり、のちには自ら進んで宦官になるため、生殖器を切断することも日本人の歴史とはならなかった。それらの理由を一つには限定しがたいが、日本と中国との間の海が、中国の濃度をいくぶん薄める物理的作用を果たしたものと思われる。

「天平の甍」のころ

一方、ある時期の日本は世界のどの国よりも積極的に中国文化を学んだ。

それはおよそ1300年前。時代でいうと奈良朝から平安朝の初期にかけてであるが、日本の青年官僚たちが荒れる東シナ海を命がけで渡り、唐の律令や三省六部(さんしょうりくぶ)という世界で最も整っているとされた政治制度を学んで日本に持ち帰った。

また、ゆれる人心を安んじるため仏教を必要とした。日本に仏教が伝わったのは6世紀の飛鳥時代とされる。当時、朝鮮半島を通じて、たおやかな線をもつ百済仏が日本にもたらされたが、その後、日本の仏教はゆるみ、税の負担を逃れるため私度僧になるなど国家運営に支障をきたすようになった。日本から留学僧を派遣して唐の高僧を招聘しようとしたのは、ゆるんだ日本の仏教界を引き締めるため、戒律を授ける師僧すなわち「授戒の師」を必要としたからである。

こうして、度重なる渡海の失敗に視力を失いながら鑑真和上が来日し、奈良の地に唐招提寺を開いたことはよく知られている。

「子曰く」を学ぶ子どもたち

中国から日本が受けた精神文化のなかで、儒教の恩恵を挙げないわけにはいかないだろう。ただし、先にも述べたように、日本には科挙はない。立身出世の手段として狂気のような試験勉強をする形態は、儒教の師である中国および儒教の優等生の朝鮮にはあっても、劣等生の日本には制度として定着しなかった。

しかし日本人は、子弟の教育のため、儒教の経典をはじめとする漢籍を大いに素読させた。子どもたちは師の指導に従い、背筋をのばし大きな声で「子曰く、学びて時にこれを習う」を読んだ。

それ自体が子どものしつけであり、社会的な礼儀作法の基本となった。父母に孝養を尽くし、長者を敬い、良い朋友を得て有意義な交わりをもつことを勧めた。これを敷衍して、仁義礼智信から忠義に至るまで、人間の守るべき徳目を心身にたたきこむのが、少なくとも一定の教育を受けた日本人のあるべき姿とされた。

大人になってからも必須の教養として、また学問研究の対象として漢学は第一の科目であった。ゆえに、儒教というより「儒学」と呼んだほうが、日本の場合には幾分適切だと思われるが、中国文化受容の方法として、先述した「日本家屋の縁側方式」がうまく機能した好例と言えるだろう。

重ねて言えば、日本人は「外国語である漢籍を日本語で読んで理解する」という、世界でも類を見ない大胆かつ合理的な読解法をもっていた。

この漢文訓読は、漢字を共通の文化遺産とする諸国のなかでも特異な才能であると言ってよい。ただ、あまりにも日本人の血肉の一部となったためか、かえってそれが外来の文化であるという実感は薄れた面があったかもしれない。科挙ではないが、日本人はこうして中国文化を自国のものとして受け入れた。

日本人らしさの形成

日本人にとって、それが幸せであったかどうかは、あえて言及しない。ただし日本人にとって、外国文化である中国文化の受容と、その後の精神形成の過程を経て、中国文化がある意味で「日本人らしさ」につながったことは確かなようだ。

江戸時代、儒学のなかの新しい学問で南宋の朱熹が確立した朱子学は、徳川幕府の官学とされた。武士社会は秩序を重んじる。上下の身分をわきまえ、君臣関係を厳格にすることによって、幕藩体制の運営に資することを目的としたからである。

ここに忠義という徳目がある。徳川期の忠義は、藩主と家臣との関係のなかで醸造され濃縮された。戦国時代を遠く離れた太平の世にあっては、もはや戦場での槍働きで恩賞を得ることはない。ただ、主君にどれほど忠節を尽くせるかが問われ、その度合いによって称賛もされ、また非難もされた。

江戸時代のちょうど中頃にあたる元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介義央に刃傷に及ぶ。殿中抜刀の罪により内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易となる。

それから1年7カ月の後、赤穂浪士47人が吉良邸へ討ち入り、主君の仇を討って見事本懐を遂げる。この事件を忠臣蔵と呼ぶようになったのは歌舞伎の演目の影響であり、多くを述べる必要もないが、以後今日に至るまで、亡君への忠義を貫いた浪士たちを武士道の鑑として称賛する思考が、日本人のなかに確実に定着した。

儒教の徳目は、多分に日本的に変化しながらも日本人の血に溶け込んだ。
 

会津が貫いた家訓

孔子を祀った孔子廟は、日本にも複数ある。

現存または復元されたものとしては、東京の湯島聖堂、栃木足利市の足利学校内などの孔子廟があり、その他、漢籍を学ぶ学問所や藩校などに置かれていた。

会津藩の初代藩主・保科正之(ほしなまさゆき、1611~1673)は、第2代将軍・徳川秀忠の落胤であるが、秀忠の正妻の目をはばかって保科姓となった。その立場が、かえってこの人物をして将軍家を支える有能な幕閣にすることになる。

名君であるので、言葉を改める。保科正之公は、熱心な朱子学の徒であり、また会津藩の内政改革に心血を注いだ。藩内の産業振興につとめ、また藩士の子弟の教育にも力を入れた。正之公が設けた教育施設・稽古堂が、後の藩校・日進館である。

その謹直を絵に描いたような正之公は、第3代将軍・家光の異母弟であるにもかかわらず、家光に対して君臣関係を徹底して貫き、よく仕えた。家光も、この弟を心から信頼し、自分が臨終のときには枕元へ呼んで「徳川宗家を頼む」といって逝去した。

正之公が遺した15カ条からなる家訓(かきん)の第一条は、大意を言えば「わが子孫は徳川将軍家に対し、忠勤に励め」である。これが、歴代会津藩主の絶対の掟となった。

重い忠義である。動乱の幕末、美濃高須から養子で会津松平家に入った松平容保(まつだいらかたもり、1836~1893)は、この家訓に従い、京都守護職を拝命した。それが後に、倒幕軍の矢面に立たされる会津藩の悲劇につながるのは歴史の残酷さと言うしかないが、会津がその忠義を貫くには、ただ一つの道しかなかったのであろう。

話を戻す。端的に結論を述べるならば、漢学の教養が高く、誠実かつ実直で、家臣や領民から絶大な信頼を集めた保科正之公の例のごとく、正統な中国文化は中国人のみならず、日本人にとっても大きな恩恵と教育効果をもたらす人類共通の文化であると言えるだろう。 

もちろん中国においても、唐の太宗、清の康熙帝のように、正統な文化を重んじ勉学に励んだ皇帝は名君として今日もなお崇敬の念を集めている。

蛇足ながら、文化を破壊した悪しき為政者は、歴史の裁きにより必ず厳罰に処されるだろう。
 

(牧)

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