君臣の道――忠【雅(みやび)を語る】

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前回、劉備がどのようにして部下の忠心を得たのかをお話ししました。「忠」の代表的な人物が岳飛です。皇帝自ら「精忠岳飛」の4文字を書き残しました。では、なぜ岳飛が「忠」の代表的な人物となったのでしょうか?

岳飛は幼いころから武術を習い、二十歳になる前には、すでに150kgの大弓を射るまでに至ったといいます。また、歴史書や兵書にも長け、まさに文武両道です。岳飛の母は国家防衛に尽力せよという期待を込めて、その背中に「尽忠報国」と彫り残しました。岳飛もまたこの通りに行いました:

1、国に忠を尽くす

戦乱の世の中、当時、金の軍隊が南下し、北宋の皇帝・徽宗と欽宗、そして、大勢の后妃、公主たちが連行され、北宋は滅亡しました。これが後に「靖康の変」(1126年)と呼ばれている事変です。

一方、徽宗の9人目の息子・趙構は南京に逃亡し、南宋を開きました。岳飛はこのような歴史的背景の下で生まれたのです。岳飛は生涯、126もの戦いに参加し、一度も負けたことはありません。その勇猛果敢な戦いっぷりに金はどんどん敗退していき、ついには岳飛の名を聞くだけでも肝を抜かすほどとなりました。

2、家族に忠を尽くす

従軍の当初、母親を気にかけて妻を家に残しましたが、戦乱の中、一度母親の消息が途絶えました。あちこち探し当てたところ、何とか見つけることができ、それからは家族を岳家軍の駐屯地内に迎えました。

しかし、長年多くの困難と苦難を経験して、母親の身体はすっかり衰弱し、常に身の回りの世話が必要です。どんなに忙しくても、岳飛は毎日母親のところに帰りましたが、それでも、母親は間もなくして亡くなりました。悲痛に襲われた岳飛は、息子の岳雲とともに裸足で500km近く歩いて母親を廬山に埋葬したのです。

岳飛像(清宮殿蔵/パブリックドメイン)

3、民に忠を尽くす

岳飛は百姓を大事にします。行軍時、決して百姓に手を出してはいけないと軍令を出し、「凍死しても家屋を壊さず、餓死しても略奪しない」という岳飛の言葉が有名です。岳飛は数々の戦いに赴きましたが、決してむやみに人を殺めたりしません。

虔州(現在の江西省贛州市一帯)で反乱が起き、岳飛は平定に赴きます。皇帝からの指示は城内の人々をすべて殺すことでしたが、岳飛は何度も百姓の無力さや生き延びたいという願望を伝え、首領だけ殺すよう進言しました。

結局、皇帝は岳飛の言葉を聞き入れ、首領一味を斬首するよう命じました。城内の百姓はこのことを知り、命を助けてくれた岳飛に感謝の気持ちを込めて多くの廟を立てました。
その年、皇帝は自ら「精忠岳飛」と書き、錦の旗にして岳飛に授けました。現在でも、江西省贛州市一帯には、まだ多くの「岳王廟」(岳飛を祭る場所)やその遺跡が残されています。

4、君主に忠を尽くす

1140年頃、朱仙鎮(現在の河南省開封市一帯)で会戦が行われました。岳飛は500騎兵を率いて10万の敵軍を破り、金軍が占領している汴京(べんけい)、のちの開封まで残り45kmしかありません。

失地奪還が目前に迫っている頃、欽宗(きんそう)を迎え入れると自分の皇位が危うくなると心配してなのか、それとも、奸臣秦檜の讒言(ざんげん)を信じたのか、趙構は立て続けに12の命令を下して、岳飛に帰還するよう要求しました。

間もなく失地を奪還できるこの時期に帰還すれば、この10年間の成果がすべて水の泡となります。しかし、自分は官吏であり、皇帝の命令に従わなければなりません。「将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり」(戦地の状況にあわなければ、たとえそれが君命であっても従わないことがある)ともいいますが、結局、岳飛は撤兵することに決めました。

5、良心に忠を尽くす

朝廷に戻った後、岳飛は軍隊の指揮権を撤収された上に、秦檜に陥れられて冤罪を着せられてしまいます。拷問されても岳飛は屈せず、死ぬ前に「天理昭昭、天理昭昭」の8文字を残しました。
一代名将・岳飛は僅か39歳でこの世を去りました。しかし、彼は生涯をもって「忠」とは何かを演義し、後世にこのわずか1文字が示す重々しい意義を残しています。

雅蘭