西行の旅路では、玄奘は普通の人なら肉体的に耐えられないような危険を何百回も経験しましたが、彼はどのように乗り越えたのでしょうか?(TN / PIXTA)

【三蔵法師の巡礼】その2 求法の途中に顕れた奇跡(2)

広大な砂漠は見渡す限りで、境目が見えません。足元に積まれた馬の白骨や馬糞だけが、この先の道を示す玄奘の手がかりでした。

突然、百人ほどの一隊が砂漠を旅しているのが見えました。各人はラクダや馬に乗り、毛皮や毛織物を着ていて、旗と矛を持ち、移動したり止まったりしていました。遠くからはっきり見えましたが、近づいたら消えてしまいました。

もしかして兵士たちが追いかけてきたのか? それとも強盗なのだろうか? 玄奘が迷っていると、空から「恐れるな。恐れるな」という声が聞こえました。その声は玄奘の心を安定させました。後になって、これは妖鬼の幻影だったとわかりました。

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「西遊記」で有名な玄奘法師(三蔵法師)。日中戦争中、日本人が彼の骨を日本に持ち帰った事をご存知だろうか。現在、玄奘法師の骨は埼玉県にある慈恩寺に奉安されている。
「千里の道は一歩から」という格言があります。一人の僧侶が、一歩を積み重ねることで17年間の旅路が可能であることに気がつきました。この若い僧侶の名は「玄奘」または「三蔵法師」として知られ、「唐僧」としても 親しまれています。冒険に満ちた取経の旅の史実から、伝奇小説『西遊記』が生まれました。小説の中で玄奘は、唐の皇帝・太宗の要請でインドへ渡り、仏教の経典を持ち帰りました。
唐の時代は、隆盛し、武力にも優れ、宗教も共存し、芸術と科学が花開いた時期でした。よく中国の黄金期とされています。『西遊記』の取経の旅は、1300年前、唐の時代に長安の都から三蔵法師が旅立つときの話です。
万里の長城は春秋と戦国時代に修築が始まった。紀元前214年、蒙恬将軍は始皇帝の命を受け、三十万人の軍勢を率いて、匈奴に迎撃した。秦、趙、魏、燕の国々によって建てられた旧城壁を繋いだ。臨洮から遼東まで何万キロメートルを伸び、それ以来は「万里の長城」と呼ばれた。